つ目を曲ったような気がした。それから二町ほど真直《まっすぐ》に歩いたような心持がした。それから先はまるで分らなくなった。暗い中にたった一人立って首を傾《かたむ》けていた。右の方から靴の音が近寄って来た。と思うと、それが四五間手前まで来て留まった。それからだんだん遠退《とおの》いて行く。しまいには、全く聞えなくなった。あとは寂《しん》としている。自分はまた暗い中にたった一人立って考えた。どうしたら下宿へ帰れるかしらん。

     懸物

 大刀老人《だいとうろうじん》は亡妻の三回忌までにはきっと一基の石碑《せきひ》を立ててやろうと決心した。けれども倅《せがれ》の痩腕《やせうで》を便《たより》に、ようやく今日《こんにち》を過すよりほかには、一銭の貯蓄もできかねて、また春になった。あれの命日も三月八日だがなと、訴えるような顔をして、倅に云うと、はあ、そうでしたっけと答えたぎりである。大刀老人は、とうとう先祖伝来の大切な一幅を売払って、金の工面《くめん》をしようときめた。倅に、どうだろうと相談すると、倅は恨《うら》めしいほど無雑作《むぞうさ》にそれがいいでしょうと賛成してくれた。倅は内務省の
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