わり》に流したように、黒い色に染められた重たい霧が、目と口と鼻とに逼《せま》って来た。外套《がいとう》は抑《おさ》えられたかと思うほど湿《しめ》っている。軽い葛湯《くずゆ》を呼吸するばかりに気息《いき》が詰まる。足元は無論|穴蔵《あなぐら》の底を踏むと同然である。
 自分はこの重苦しい茶褐色の中に、しばらく茫然《ぼうぜん》と佇立《たたず》んだ。自分の傍《そば》を人が大勢通るような心持がする。けれども肩が触れ合わない限りははたして、人が通っているのかどうだか疑わしい。その時この濛々《もうもう》たる大海の一点が、豆ぐらいの大きさにどんよりと黄色く流れた。自分はそれを目標《めあて》に、四歩ばかりを動かした。するとある店先の窓硝子《まどガラス》の前へ顔が出た。店の中では瓦斯《ガス》を点《つ》けている。中は比較的明かである。人は常のごとくふるまっている。自分はやっと安心した。
 バタシーを通り越して、手探《てさぐ》りをしないばかりに向うの岡へ足を向けたが、岡の上は仕舞屋《しもたや》ばかりである。同じような横町が幾筋も並行《へいこう》して、青天の下《もと》でも紛《まぎ》れやすい。自分は向って左の二
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