その時栗毛の胴が、袢天《はんてん》を着た男の提灯《ちょうちん》を掠《かす》めて、天鵞絨《びろうど》のごとく光った。紅色《べにいろ》に塗った太い車の輪が自分の足に触れたかと思うほど際《きわ》どく回った。と思うと、喞筒は一直線に坂を馳《か》け上がった。
 坂の中途へ来たら、前は正面にあった※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》が今度は筋違《すじかい》に後の方に見え出した。坂の上からまた左へ取って返さなければならない。横丁《よこちょう》を見つけていると、細い路次《ろじ》のようなのが一つあった。人に押されて入り込むと真暗である。ただ一寸《いっすん》のセキ[#「セキ」に傍点]もないほど詰《つ》んでいる。そうして互に懸命な声を揚《あ》げる。火は明かに向うに燃えている。
 十分の後《のち》ようやく路次を抜けて通りへ出た。その通りもまた組屋敷《くみやしき》ぐらいな幅で、すでに人でいっぱいになっている。路次を出るや否や、さっき地《じ》を蹴《け》って、馳け上がった蒸汽喞筒が眼の前にじっとしていた。喞筒はようやくここまで馬を動かしたが、二三間先きの曲り角に妨《さまた》げられて、どうする
前へ 次へ
全123ページ中72ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング