ら静かな眸《ひとみ》が座敷の下に落ちた。井深はまた机の方に向き直った。
 その晩井深は何遍《なんべん》となくこの画を見た。そうして、どことなく細君の評が当っているような気がし出した。けれども明《あく》る日になったら、そうでもないような顔をして役所へ出勤した。四時頃|家《うち》へ帰って見ると、昨夕《ゆうべ》の額は仰向《あおむ》けに机の上に乗せてある。午《ひる》少し過に、欄間《らんま》の上から突然落ちたのだという。道理で硝子《ガラス》がめちゃめちゃに破《こわ》れている。井深は額の裏を返して見た。昨夕|紐《ひも》を通した環《かん》が、どうした具合か抜けている。井深はそのついでに額の裏を開けて見た。すると画と背中合せに、四つ折の西洋紙が出た。開けて見ると、印気《インキ》で妙な事が書いてある。
「モナリサの唇には女性《にょしょう》の謎《なぞ》がある。原始以降この謎を描き得たものはダ ヴィンチだけである。この謎を解き得たものは一人もない。」
 翌日《あくるひ》井深は役所へ行って、モナリサとは何だと云って、皆《みんな》に聞いた。しかし誰も分らなかった。じゃダ ヴィンチとは何だと尋ねたが、やっぱり誰も
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