と云った。青年はそれぎり来なくなった。
 すると春が過ぎて、夏になって、この青年の事もいつか忘れるようになった或日、――その日は日に遠い座敷の真中に、単衣《ひとえ》を唯《ただ》一枚つけて、じっと書見《しょけん》をしていてさえ堪《た》えがたいほどに暑かった。――彼れは突然やって来た。
 相変らず例の派出《はで》な袴《はかま》を穿《は》いて、蒼白《あおしろ》い額ににじんだ汗をこくめいに手拭《てぬぐい》で拭《ふ》いている。少し瘠《や》せたようだ。はなはだ申し兼ねたが金を二十円貸して下さいという。実は友人が急病に罹《かか》ったから、さっそく病院へ入れたのだが、差し当り困るのは金で、いろいろ奔走もして見たが、ちょっとできない。やむをえず上がった。と説明した。
 自分は書見をやめて、青年の顔をじっと見た。彼は例のごとく両手を膝《ひざ》の上に正しく置いたまま、どうぞと低い声で云った。あなたの友人の家《うち》はそれほど貧しいのかと聞き返したら、いやそうではない、ただ遠方で急の間に合わないから御願をする、二週間|経《た》てば、国から届くはずだからその時はすぐと御返しするという答である。自分は金の調達《ち
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