ていなかったから、遠慮なくその旨《むね》を話すと、書き直して見ましょうと云って持って帰った。帰ってから一週間の後《のち》、また原稿を懐《ふところ》にして来た。かようにして彼《か》れは来るたびごとに、書いたものを何か置いて行かない事はなかった。中には三冊続きの大作さえあった。しかしそれはもっとも不出来なものであった。自分は彼れの手に成ったもののうちで、もっとも傑《すぐ》れたと思われるのを、一二度雑誌へ周旋した事がある。けれども、それは、ただ編輯者《へんしゅうしゃ》の御情《おなさけ》で誌上にあらわれただけで、一銭の稿料にもならなかったらしい。自分が彼の生活難を耳にしたのはこの時である。彼はこれから文《ぶん》を売って口を糊《のり》するつもりだと云っていた。
或時妙なものを持って来てくれた。菊の花を乾《ほ》して、薄い海苔《のり》のように一枚一枚に堅めたものである。精進《しょうじん》の畳鰯《たたみいわし》だと云って、居合せた甲子《こうし》が、さっそく浸《ひた》しものに湯がいて、箸《はし》を下《くだ》しながら、酒を飲んだ。それから、鈴蘭《すずらん》の造花を一枝持って来てくれた事もある。妹が拵《こ
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