、出端《では》を失った風が、この底を掬《すく》うようにして通り抜ける。黒いものは網の目を洩《も》れた雑魚《ざこ》のごとく四方にぱっと散って行く。鈍《のろ》い自分もついにこの風に吹き散らされて、家のなかへ逃げ込んだ。
 長い廻廊をぐるぐる廻って、二つ三つ階子段《はしごだん》を上《のぼ》ると、弾力《ばね》じかけの大きな戸がある。身躯《からだ》の重みをちょっと寄せかけるや否や、音もなく、自然《じねん》と身は大きなガレリーの中に滑《すべ》り込んだ。眼の下は眩《まばゆ》いほど明かである。後《うしろ》をふり返ると、戸はいつの間にか締《しま》って、いる所は春のように暖かい。自分はしばらくの間、瞳《ひとみ》を慣《な》らすために、眼をぱちぱちさせた。そうして、左右を見た。左右には人がたくさんいる。けれども、みんな静かに落ちついている。そうして顔の筋肉が残らず緩《ゆる》んで見える。たくさんの人がこう肩を並べているのに、いくらたくさんいても、いっこう苦にならない。ことごとく互いと互いを和《やわら》げている。自分は上を見た。上は大穹窿《おおまるがた》の天井《てんじょう》で極彩色《ごくさいしき》の濃く眼に応《こ
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