《げんこつ》を固めて、烈《はげ》しく胸の辺《あたり》を打ち出した。二三間離れて聞いていても、とんとん音がする。倫敦《ロンドン》の御者はこうして、己《おの》れとわが手を暖めるのである。自分はふり返ってちょっとこの御者を見た。剥《は》げ懸《かか》った堅い帽子の下から、霜《しも》に侵《おか》された厚い髪の毛が食《は》み出《だ》している。毛布《ケット》を継《つ》ぎ合せたような粗《あら》い茶の外套《がいとう》の背中の右にその肱《ひじ》を張って、肩と平行になるまで怒《いか》らしつつ、とんとん胸を敲《たた》いている。まるで一種の器械の活動するようである。自分は再び歩き出した。
 道を行くものは皆追い越して行く。女でさえ後《おく》れてはいない。腰の後部《うしろ》でスカートを軽く撮《つま》んで、踵《かかと》の高い靴が曲《まが》るかと思うくらい烈《はげ》しく舗石を鳴らして急いで行く。よく見ると、どの顔もどの顔もせっぱつまっている。男は正面を見たなり、女は傍目《わきめ》も触らず、ひたすらにわが志《こころざ》す方《かた》へと一直線に走るだけである。その時の口は堅く結んでいる。眉《まゆ》は深く鎖《とざ》している
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