った、おもちゃの杓子《しゃくし》をおろして、猫に供えた茶碗の水をしゃくって飲んだ。それも一度ではない。萩の花の落ちこぼれた水の瀝《したた》りは、静かな夕暮の中に、幾度《いくたび》か愛子《あいこ》の小さい咽喉《のど》を潤《うる》おした。
 猫の命日には、妻がきっと一切《ひとき》れの鮭《さけ》と、鰹節《かつぶし》をかけた一杯の飯を墓の前に供える。今でも忘れた事がない。ただこの頃では、庭まで持って出ずに、たいていは茶の間の箪笥《たんす》の上へ載せておくようである。

     暖かい夢

 風が高い建物に当って、思うごとく真直《まっすぐ》に抜けられないので、急に稲妻《いなずま》に折れて、頭の上から、斜《はす》に舗石《しきいし》まで吹きおろして来る。自分は歩きながら被《かぶ》っていた山高帽《やまたかぼう》を右の手で抑《おさ》えた。前に客待の御者《ぎょしゃ》が一人いる。御者台《ぎょしゃだい》から、この有様を眺めていたと見えて、自分が帽子から手を離して、姿勢を正すや否や、人指指《ひとさしゆび》を竪《たて》に立てた。乗らないかと云う符徴《ふちょう》である。自分は乗らなかった。すると御者は右の手に拳骨
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