やり一《ひ》と所《ところ》に落ちつけているのみである。彼れが家《うち》の小供から存在を認められぬように、自分でも、世の中の存在を判然《はっきり》と認めていなかったらしい。
 それでも時々は用があると見えて、外へ出て行く事がある。するといつでも近所の三毛猫から追《おっ》かけられる。そうして、怖《こわ》いものだから、縁側を飛び上がって、立て切ってある障子《しょうじ》を突き破って、囲炉裏《いろり》の傍まで逃げ込んで来る。家のものが、彼れの存在に気がつくのはこの時だけである。彼れもこの時に限って、自分が生きている事実を、満足に自覚するのだろう。
 これが度《たび》重なるにつれて、猫の長い尻尾《しっぽ》の毛がだんだん抜けて来た。始めはところどころがぽくぽく穴のように落ち込んで見えたが、後《のち》には赤肌《あかはだ》に脱け広がって、見るも気の毒なほどにだらりと垂れていた。彼れは万事に疲れ果てた、体躯《からだ》を圧《お》し曲げて、しきりに痛い局部を舐《な》め出した。
 おい猫がどうかしたようだなと云うと、そうですね、やっぱり年を取ったせいでしょうと、妻《さい》は至極《しごく》冷淡である。自分もそのま
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