と打った。戸の向側《むこうがわ》に足音がしないから、通じないのかと思って、再び敲子に手を掛けようとする途端《とたん》に、戸が自然《じねん》と開《あ》いた。自分は敷居から一歩なかへ足を踏み込んだ。そうして、詫《わ》びるように自分をじっと見上げているアグニスと顔を合わした。その時この三箇月ほど忘れていた、過去の下宿の匂が、狭い廊下の真中で、自分の嗅覚《きゅうかく》を、稲妻《いなずま》の閃《ひら》めくごとく、刺激した。その匂のうちには、黒い髪と黒い眼と、クルーゲルのような顔と、アグニスに似た息子《むすこ》と、息子の影のようなアグニスと、彼らの間に蟠《わだか》まる秘密を、一度にいっせいに含んでいた。自分はこの匂を嗅《か》いだ時、彼らの情意、動作、言語、顔色を、あざやかに暗い地獄の裏《うち》に認めた。自分は二階へ上がってK君に逢《あ》うに堪《た》えなかった。

     猫の墓

 早稲田へ移ってから、猫がだんだん瘠《や》せて来た。いっこうに小供と遊ぶ気色《けしき》がない。日が当ると縁側《えんがわ》に寝ている。前足を揃《そろ》えた上に、四角な顎《あご》を載せて、じっと庭の植込《うえこみ》を眺めた
前へ 次へ
全123ページ中38ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング