じがした。燃えついたばかりの※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》に照らされた主婦の顔を見ると、うすく火熱《ほて》った上に、心持|御白粉《おしろい》を塗《つ》けている。自分は部屋の入り口で化粧の淋《さび》しみと云う事を、しみじみと悟った。主婦は自分の印象を見抜いたような眼遣《めづか》いをした。自分が主婦から一家の事情を聞いたのはこの時である。
主婦の母は、二十五年の昔、ある仏蘭西人《フランスじん》に嫁《とつ》いで、この娘を挙《あ》げた。幾年か連れ添った後《のち》夫は死んだ。母は娘の手を引いて、再び独逸人《ドイツじん》の許《もと》に嫁いだ。その独逸人が昨夜《ゆうべ》の老人である。今では倫敦《ロンドン》のウェスト・エンドで仕立屋の店を出して、毎日毎日そこへ通勤している。先妻の子も同じ店で働いているが、親子非常に仲が悪い。一《ひと》つ家《うち》にいても、口を利《き》いた事がない。息子《むすこ》は夜きっと遅く帰る。玄関で靴を脱いで足袋跣足《たびはだし》になって、爺《おやじ》に知れないように廊下を通って、自分の部屋へ這入って寝てしまう。母はよほど前に失《な》くなった。死ぬ
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