時に自分の事をくれぐれも云いおいて死んだのだが、母の財産はみんな阿爺《おやじ》の手に渡って、一銭も自由にする事ができない。仕方がないから、こうして下宿をして小遣《こづかい》を拵《こしら》えるのである。アグニスは――
主婦はそれより先を語らなかった。アグニスと云うのはここのうちに使われている十三四の女の子の名である。自分はその時今朝見た息子《むすこ》の顔と、アグニスとの間にどこか似たところがあるような気がした。あたかもアグニスは焼麺麭《トースト》を抱《かか》えて厨《くりや》から出て来た。
「アグニス、焼麺麭《トースト》を食べるかい」
アグニスは黙って、一片《いっぺん》の焼麺麭を受けてまた厨の方へ退いた。
一箇月の後《のち》自分はこの下宿を去った。
過去の匂い
自分がこの下宿を出る二週間ほど前に、K君は蘇格蘭《スコットランド》から帰って来た。その時自分は主婦によってK君に紹介された。二人の日本人が倫敦《ロンドン》の山の手の、とある小さな家に偶然落ち合って、しかも、まだ互に名乗《なの》り換《かわ》した事がないので、身分も、素性《すじょう》も、経歴も分らない外国婦人の力を
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