坐った。日の当った事のないように薄暗い部屋を見回すと、マントルピースの上に淋《さび》しい水仙が活《い》けてあった。主婦は自分に茶だの焼麺麭《トースト》を勧《すす》めながら、四方山《よもやま》の話をした。その時何かの拍子で、生れ故郷は英吉利ではない、仏蘭西《フランス》であるという事を打ち明けた。そうして黒い眼を動かして、後《うしろ》の硝子壜《ガラスびん》に挿《さ》してある水仙を顧《かえ》りみながら、英吉利は曇っていて、寒くていけないと云った。花でもこの通り奇麗《きれい》でないと教えたつもりなのだろう。
 自分は肚《はら》の中でこの水仙の乏《とぼ》しく咲いた模様と、この女のひすばった頬の中を流れている、色の褪《さ》めた血の瀝《したたり》とを比較して、遠い仏蘭西で見るべき暖かな夢を想像した。主婦の黒い髪や黒い眼の裏《うち》には、幾年《いくねん》の昔に消えた春の匂《におい》の空《むな》しき歴史があるのだろう。あなたは仏蘭西語を話しますかと聞いた。いいやと答えようとする舌先を遮《さえぎ》って、二三句続け様《ざま》に、滑《なめ》らかな南の方の言葉を使った。こういう骨の勝った咽喉《のど》から、どうし
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