ゃ都合が悪いかと聞かせると、明日になると出立の準備や何かで、こっちも忙《いそが》しいから……と云うところで、電話が切れてしまった。いくら、どうしても懸《かか》らない。おおかた風のせいでしょうと、妻が寒い顔をして帰って来た。それでとうとう逢わずにしまった。
 昔の中村は満鉄の総裁になった。昔の自分は小説家になった。満鉄の総裁とはどんな事をするものかまるで知らない。中村も自分の小説をいまだかつて一|頁《ページ》も読んだ事はなかろう。

     クレイグ先生

 クレイグ先生は燕《つばめ》のように四階の上に巣をくっている。舗石《しきいし》の端に立って見上げたって、窓さえ見えない。下からだんだんと昇って行くと、股《もも》の所が少し痛くなる時分に、ようやく先生の門前に出る。門と申しても、扉や屋根のある次第ではない。幅三尺足らずの黒い戸に真鍮《しんちゅう》の敲子《ノッカー》がぶら下がっているだけである。しばらく門前で休息して、この敲子の下端《かたん》をこつこつと戸板へぶつけると、内から開けてくれる。
 開けてくれるものは、いつでも女である。近眼《ちかめ》のせいか眼鏡をかけて、絶えず驚いている。年
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