ました」と女が云う。三つの煙りが蓋《ふた》の上に塊《かた》まって茶色の球《たま》が出来ると思うと、雨を帯びた風が颯《さっ》と来て吹き散らす。塊まらぬ間《うち》に吹かるるときには三つの煙りが三つの輪を描《えが》いて、黒塗に蒔絵《まきえ》を散らした筒の周囲《まわり》を遶《めぐ》る。あるものは緩《ゆる》く、あるものは疾《と》く遶る。またある時は輪さえ描く隙《ひま》なきに乱れてしまう。「荼毘《だび》だ、荼毘だ」と丸顔の男は急に焼場の光景を思い出す。「蚊《か》の世界も楽じゃなかろ」と女は人間を蚊に比較する。元へ戻りかけた話しも蚊遣火と共に吹き散らされてしもうた。話しかけた男は別に語りつづけようともせぬ。世の中はすべてこれだと疾《と》うから知っている。
「御夢の物語りは」とややありて女が聞く。男は傍《かたわ》らにある羊皮《ようひ》の表紙に朱で書名を入れた詩集をとりあげて膝の上に置く。読みさした所に象牙《ぞうげ》を薄く削《けず》った紙《かみ》小刀《ナイフ》が挟《はさ》んである。巻《かん》に余って長く外へ食《は》み出した所だけは細かい汗をかいている。指の尖《さき》で触《さわ》ると、ぬらりとあやしい字が
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