れた。三人は思い思いに臥床《ふしど》に入る。
三十分の後《のち》彼らは美くしき多くの人の……と云う句も忘れた。ククーと云う声も忘れた。蜜を含んで針を吹く隣りの合奏も忘れた、蟻の灰吹《はいふき》を攀《よ》じ上《のぼ》った事も、蓮《はす》の葉に下りた蜘蛛《くも》の事も忘れた。彼らはようやく太平に入る。
すべてを忘れ尽したる後女はわがうつくしき眼と、うつくしき髪の主《ぬし》である事を忘れた。一人の男は髯のある事を忘れた。他の一人は髯のない事を忘れた。彼らはますます太平である。
昔《むか》し阿修羅《あしゅら》が帝釈天《たいしゃくてん》と戦って敗れたときは、八万四千の眷属《けんぞく》を領して藕糸孔中《ぐうしこうちゅう》に入《い》って蔵《かく》れたとある。維摩《ゆいま》が方丈の室に法を聴ける大衆は千か万かその数を忘れた。胡桃《くるみ》の裏《うち》に潜《ひそ》んで、われを尽大千世界《じんだいせんせかい》の王とも思わんとはハムレットの述懐と記憶する。粟粒芥顆《ぞくりゅうかいか》のうちに蒼天《そうてん》もある、大地もある。一世《いっせい》師に問うて云う、分子《ぶんし》は箸《はし》でつまめるものです
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