かと。分子はしばらく措《お》く。天下は箸の端《さき》にかかるのみならず、一たび掛け得れば、いつでも胃の中に収まるべきものである。
 また思う百年は一年のごとく、一年は一刻のごとし。一刻を知ればまさに人生を知る。日は東より出でて必ず西に入る。月は盈《み》つればかくる。いたずらに指を屈して白頭に到《いた》るものは、いたずらに茫々《ぼうぼう》たる時に身神を限らるるを恨《うら》むに過ぎぬ。日月は欺《あざむ》くとも己れを欺くは智者とは云われまい。一刻に一刻を加うれば二刻と殖《ふ》えるのみじゃ。蜀川《しょくせん》十様の錦、花を添えて、いくばくの色をか変ぜん。
 八畳の座敷に髯のある人と、髯のない人と、涼しき眼の女が会して、かくのごとく一夜《いちや》を過した。彼らの一夜を描《えが》いたのは彼らの生涯《しょうがい》を描いたのである。
 なぜ三人が落ち合った? それは知らぬ。三人はいかなる身分と素性《すじょう》と性格を有する? それも分らぬ。三人の言語動作を通じて一貫した事件が発展せぬ? 人生を書いたので小説をかいたのでないから仕方がない。なぜ三人とも一時に寝た? 三人とも一時に眠くなったからである。

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