晴れやかに心地よし。
 余は茂る葉を見ようと思い、青き野を眺《なが》めようと思うて実は裏の窓から首を出したのである。首はすでに二|返《へん》ばかり出したが青いものも何にも見えぬ。右に家が見える。左《ひだ》りに家が見える。向《むこう》にも家が見える。その上には鉛色《なまりいろ》の空が一面に胃病やみのように不精無精《ふしょうぶしょう》に垂れかかっているのみである。余は首を縮めて窓より中へ引き込めた。案内者はまだ何年何月何日の続きを朗らかに読誦《どくじゅ》している。
 カーライルまた云う倫敦《ロンドン》の方《かた》を見れば眼に入るものはウェストミンスター・アベーとセント・ポールズの高塔の頂《いただ》きのみ。その他|幻《まぼろし》のごとき殿宇《でんう》は煤《すす》を含む雲の影の去るに任せて隠見す。
「倫敦の方」とはすでに時代後れの話である。今日《こんにち》チェルシーに来て倫敦の方を見るのは家の中《うち》に坐って家の方《かた》を見ると同じ理窟《りくつ》で、自分の眼で自分の見当《けんとう》を眺めると云うのと大した差違はない。しかしカーライルは自《みずか》ら倫敦に住んでいるとは思わなかったのである。
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