彼は田舎《いなか》に閑居して都の中央にある大伽藍《だいがらん》を遥《はる》かに眺めたつもりであった。余は三度《みた》び首を出した。そして彼のいわゆる「倫敦の方」へと視線を延ばした。しかしウェストミンスターも見えぬ、セント・ポールズも見えぬ。数万の家、数十万の人、数百万の物音は余と堂宇との間に立ちつつある、漾《ただよ》いつつある、動きつつある。千八百三十四年のチェルシーと今日のチェルシーとはまるで別物である。余はまた首を引き込めた。婆さんは黙然《もくねん》として余の背後に佇立《ちょりつ》している。
 三階に上《あが》る。部屋の隅を見ると冷やかにカーライルの寝台《ねだい》が横《よこた》わっている。青き戸帳《とばり》が物静かに垂れて空《むな》しき臥床《ふしど》の裡《うち》は寂然《せきぜん》として薄暗い。木は何の木か知らぬが細工《さいく》はただ無器用で素朴であるというほかに何らの特色もない。その上に身を横えた人の身の上も思い合わさるる。傍《かたわ》らには彼が平生使用した風呂桶《ふろおけ》が九鼎《きゅうてい》のごとく尊げに置かれてある。
 風呂桶とはいうもののバケツの大きいものに過ぎぬ。彼がこの
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