大鍋《おおなべ》の中で倫敦の煤《すす》を洗い落したかと思うとますますその人となりが偲《しの》ばるる。ふと首を上げると壁の上に彼が往生《おうじょう》した時に取ったという漆喰《しっくい》製《せい》の面型《マスク》がある。この顔だなと思う。この炬燵《こたつ》櫓《やぐら》ぐらいの高さの風呂に入《はい》ってこの質素な寝台の上に寝て四十年間やかましい小言《こごと》を吐き続けに吐いた顔はこれだなと思う。婆さんの淀《よど》みなき口上が電話口で横浜の人の挨拶を聞くように聞える。
 宜《よろ》しければ上りましょうと婆さんがいう。余はすでに倫敦の塵《ちり》と音を遥《はる》かの下界に残して五重の塔の天辺《てっぺん》に独坐するような気分がしているのに耳の元で「上りましょう」という催促を受けたから、まだ上があるのかなと不思議に思った。さあ上ろうと同意する。上れば上るほど怪しい心持が起りそうであるから。
 四階へ来た時は縹渺《ひょうびょう》として何事とも知らず嬉しかった。嬉しいというよりはどことなく妙であった。ここは屋根裏である。天井を見ると左右は低く中央が高く馬の鬣《たてがみ》のごとき形《かた》ちをしてその一番高
前へ 次へ
全18ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング