が剥《は》げるごとく感ぜらるる。階段を降り切って最下の欄干に倚《よ》って通りを眺《なが》めた時にはついに依然たる一個の俗人となり了《おわ》ってしまった。案内者は平気な顔をして厨《くりや》を御覧なさいという。厨は往来《おうらい》よりも下にある。今余が立ちつつある所よりまた五六段の階を下らねばならぬ。これは今案内をしている婆さんの住居《すまい》になっている。隅に大きな竈《かまど》がある。婆さんは例の朗読調をもって「千八百四十四年十月十二日有名なる詩人テニソンが初めてカーライルを訪問した時彼ら両人はこの竈の前に対坐して互に煙草《たばこ》を燻《くゆ》らすのみにて二時間の間|一言《ひとこと》も交《まじ》えなかったのであります」という。天上に在《あ》って音響を厭《いと》いたる彼は地下に入っても沈黙を愛したるものか。
 最後に勝手口から庭に案内される。例の四角な平地を見廻して見ると木らしい木、草らしい草は少しも見えぬ。婆さんの話しによると昔は桜もあった、葡萄《ぶどう》もあった。胡桃《くるみ》もあったそうだ。カーライルの細君はある年二十五銭ばかりの胡桃を得たそうだ。婆さん云う「庭の東南の隅を去る五尺余
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