差《さ》した儘、旅宿《やど》の戸口《とぐち》迄|来《き》て、格子《こうし》を開《あ》けて中《なか》へ這入《はいつ》た。さうして格子をぴしやりと締《し》めて、中《うち》から、長井|直記《なほき》は拙者だ。何御用か。と聞いたさうである。
代助は斯んな話を聞く度《たび》に、勇《いさ》ましいと云ふ気持よりも、まづ怖い方が先に立《た》つ。度胸を買つてやる前に、腥《なま》ぐさい臭《にほひ》が鼻柱《はなばしら》を抜ける様に応《こた》へる。
もし死が可能であるならば、それは発作《ほつさ》の絶高頂に達した一瞬にあるだらうとは、代助のかねて期待する所である。所が、彼は決して発作《ほつさ》性の男でない。手も顫《ふる》へる、足も顫《ふる》へる。声の顫《ふる》へる事や、心臓の飛び上《あ》がる事は始終ある。けれども、激する事は近来殆んどない。激すると云ふ心的状態は、死に近づき得る自然の階段で、激するたびに死《し》に易くなるのは眼《め》に見えてゐるから、時には好奇心で、せめて、其近所迄押し寄せて見《み》たいと思ふ事もあるが、全く駄目である。代助は此頃の自己を解剖するたびに、五六年前の自己と、丸で違《ちが》つてゐ
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