「はあゝ」と気の乗らない返事をしたが、やがて調子を易《か》へて、説き出した。
「若い人がよく失敗《しくじる》といふが、全く誠実と熱心が足りないからだ。己《おれ》も多年の経験で、此年《このとし》になる迄|遣《や》つて来《き》たが、どうしても此二つがないと成功しないね」
「誠実と熱心があるために、却つて遣り損ふこともあるでせう」
「いや、先《まづ》ないな」
親爺《おやぢ》の頭《あたま》の上《うへ》に、誠者天之道也と云ふ額が麗々と掛けてある。先代の旧藩主に書いて貰つたとか云つて、親爺《おやぢ》は尤も珍重してゐる。代助は此額が甚だ嫌である。第一字が嫌だ。其上文句が気に喰はない。誠は天の道なりの後《あと》へ、人の道にあらずと附け加へたい様な心持がする。
其昔し藩の財政が疲弊して、始末が付かなくなつた時、整理の任に当つた長井は、藩侯に縁故のある町人を二三人呼び集めて、刀《かたな》を脱いで其前に頭《あたま》を下《さ》げて、彼等に一時の融通を頼んだ事がある。固より返《かへ》せるか、返せないか、分らなかつたんだから、分らないと真直に自白して、それがために其時成功した。その因縁で此|額《がく》を藩主
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