してゐた。
 母《はゝ》の客に行つてゐた所は、その遠縁《とほえん》にあたる高木《たかぎ》といふ勢力家であつたので、大変都合が好《よ》かつた。と云ふのは、其頃は世の中《なか》の動《うご》き掛けた当時で、侍《さむらひ》の掟《おきて》も昔の様には厳重に行はれなかつた。殊更殺された相手は評判の悪い無頼の青年であつた。ので高木は母とともに長井の家《いへ》へ来《き》て、何分の沙汰が公向《おもてむき》からある迄は、当分其儘にして、手を着けずに置くやうにと、父を諭《さと》した。
 高木はそれから奔走を始めた。さうして第一に家老を説き付けた。それから家老を通して藩主を説き付けた。殺された某《なにがし》の親《おや》は又、存外訳の解《わか》つた人で、平生から倅《せがれ》の行跡《ぎやうせき》の良くないのを苦に病んでゐたのみならず、斬り付けた当時も、此方《こつち》から狼藉をしかけたと同然であるといふ事が明瞭になつたので、兄弟を寛大に処分する運動に就ては別段の苦情を持ち出さなかつた。兄弟はしばらく一間《ひとま》の内《うち》に閉ぢ籠つて、謹慎の意を表して後、二人《ふたり》とも人《ひと》知れず家《いへ》を捨《す》てた。
 三年の後|兄《あに》は京都で浪士に殺された。四年目に天下が明治となつた。又五六年してから、誠之進は両親を国元から東京へ呼び寄せた。さうして妻を迎へて、得《とく》といふ一字|名《な》になつた。其時は自分の命《いのち》を助けてくれた高木はもう死んで、養子の代になつてゐた。東京へ出て仕官の方法でも講じたらと思つて色々勧めて見たが応じなかつた。此養子に子供が二人《ふたり》あつて、男の方は京都へ出て同志社へ這入《はい》つた。其所《そこ》を卒業してから、長らく亜米利加に居つたさうだが、今では神戸で実業に従事して、相当の資産家になつてゐる。女の方は県下の多額納税者の所へ嫁《よめ》に行つた。代助の細君の候補者といふのは此多額納税者の娘である。
「大変込み入つてるのね。私《わたし》驚ろいちまつた」と嫂《あによめ》が代助に云つた。
「御父《おとう》さんから何返も聞いてるぢやありませんか」
「だつて、何時《いつ》もは御|嫁《よめ》の話《はなし》が出《で》ないから、好《い》い加減に聞いてるのよ」
「佐川《さがは》にそんな娘があつたのかな。僕も些《ち》つとも知らなかつた」
「御貰《おもらひ》なさいよ」

前へ 次へ
全245ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング