それから
夏目漱石

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)誰《だれ》か

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)此|掌《てのひら》に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)六《む》※[#小書き濁点付き平仮名つ、25−10]かしい

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)初々《うい/\》しく
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

       一の一

 誰《だれ》か慌《あは》たゞしく門前《もんぜん》を馳《か》けて行く足音《あしおと》がした時、代助《だいすけ》の頭《あたま》の中《なか》には、大きな俎下駄《まないたげた》が空《くう》から、ぶら下《さが》つてゐた。けれども、その俎《まないた》下駄は、足音《あしおと》の遠退《とほの》くに従つて、すうと頭《あたま》から抜《ぬ》け出《だ》して消えて仕舞つた。さうして眼《め》が覚めた。
 枕元《まくらもと》を見ると、八重の椿《つばき》が一輪《いちりん》畳《たゝみ》の上に落ちてゐる。代助《だいすけ》は昨夕《ゆふべ》床《とこ》の中《なか》で慥かに此花の落ちる音《おと》を聞いた。彼の耳には、それが護謨毬《ごむまり》を天井裏から投げ付けた程に響いた。夜が更《ふ》けて、四隣《あたり》が静かな所為《せゐ》かとも思つたが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋《あばら》のはづれに正《たゞ》しく中《あた》る血《ち》の音《おと》を確《たし》かめながら眠《ねむり》に就いた。
 ぼんやりして、少時《しばらく》、赤ん坊の頭《あたま》程もある大きな花の色を見詰めてゐた彼は、急に思ひ出した様に、寐ながら胸の上に手を当《あ》てゝ、又心臓の鼓動を検し始めた。寐ながら胸の脈《みやく》を聴《き》いて見るのは彼の近来の癖になつてゐる。動悸は相変らず落ち付いて確《たしか》に打つてゐた。彼は胸に手を当《あ》てた儘、此鼓動の下に、温《あたた》かい紅《くれなゐ》の血潮の緩く流れる様《さま》を想像して見た。是が命《いのち》であると考へた。自分は今流れる命《いのち》を掌《てのひら》で抑へてゐるんだと考へた。それから、此|掌《てのひら》に応《こた》へる、時計の針に似た響《ひゞき》は、自分を死《し》に誘《
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