いざな》ふ警鐘の様なものであると考へた。此警鐘を聞くことなしに生《い》きてゐられたなら、――血を盛《も》る袋《ふくろ》が、時《とき》を盛《も》る袋《ふくろ》の用を兼ねなかつたなら、如何《いか》に自分は気楽だらう。如何に自分は絶対に生《せい》を味はひ得るだらう。けれども――代助《だいすけ》は覚えず悚《ぞつ》とした。彼は血潮《ちしほ》によつて打たるゝ掛念のない、静かな心臓を想像するに堪へぬ程に、生《い》きたがる男である。彼は時々《とき/″\》寐《ね》ながら、左の乳《ちゝ》の下《した》に手を置いて、もし、此所《こゝ》を鉄槌《かなづち》で一つ撲《どや》されたならと思ふ事がある。彼は健全に生きてゐながら、此生きてゐるといふ大丈夫な事実を、殆んど奇蹟の如き僥倖とのみ自覚し出す事さへある。
 彼は心臓から手を放して、枕元の新聞を取り上げた。夜具の中《なか》から両手を出《だ》して、大きく左右に開《ひら》くと、左側《ひだりがは》に男が女を斬《き》つてゐる絵があつた。彼はすぐ外《ほか》の頁《ページ》へ眼《め》を移した。其所《そこ》には学校騒動が大きな活字で出てゐる。代助は、しばらく、それを読んでゐたが、やがて、惓怠《だる》さうな手から、はたりと新聞を夜具の上《うへ》に落した。夫から烟草を一本|吹《ふ》かしながら、五寸許り布団を摺《ず》り出して、畳の上の椿《つばき》を取つて、引つ繰《く》り返《かへ》して、鼻の先へ持《も》つて来《き》た。口《くち》と口髭《くちひげ》と鼻の大部分が全く隠《かく》れた。烟りは椿《つばき》の瓣《はなびら》と蕊《ずい》に絡《から》まつて漂《たゞよ》ふ程濃く出た。それを白《しろ》い敷布《しきふ》の上《うへ》に置くと、立ち上《あ》がつて風呂場《ふろば》へ行つた。
 其所《そこ》で叮嚀《ていねい》に歯《は》を磨《みが》いた。彼《かれ》は歯並《はならび》の好《い》いのを常に嬉しく思つてゐる。肌《はだ》を脱《ぬ》いで綺麗《きれい》に胸《むね》と脊《せ》を摩擦《まさつ》した。彼《かれ》の皮膚《ひふ》には濃《こまや》かな一種の光沢《つや》がある。香油を塗《ぬ》り込んだあとを、よく拭き取《と》つた様に、肩《かた》を揺《うご》かしたり、腕《うで》を上《あ》げたりする度《たび》に、局所《きよくしよ》の脂肪《しぼう》が薄《うす》く漲《みなぎ》つて見える。かれは夫《それ》にも満足である。
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