は、父《ちゝ》の客《きやく》の乗《の》つて来《き》たものであつた。代助は長《なが》く懸《か》ゝらなければ、客《きやく》の帰る迄|待《ま》たうと思つた。嫂《あによめ》は判然《はつきり》しないから、風呂場へ行《い》つて、水《みづ》で顔を拭《ふ》いて来《く》ると云つて立つた。下女が好《い》い香《にほひ》のする葛《くづ》の粽《ちまき》を、深《ふか》い皿《さら》に入れて持《も》つて来《き》た。代助は粽《ちまき》の尾をぶら下《さ》げて、頻《しき》りに嗅《か》いで見《み》た。
 梅《うめ》子が涼《すゞ》しい眼付《めつき》になつて風呂場から帰つた時、代助は粽《ちまき》の一《ひと》つを振子《ふりこ》の様に振《ふ》りながら、今度は、
「兄《にい》さんは何《ど》うしました」と聞いた。梅子はすぐ此陳腐な質問に答へる義務がないかの如く、しばらく椽|鼻《ばな》に立《た》つて、庭《には》を眺《なが》めてゐたが、
「二三日の雨《あめ》で、苔《こけ》の色《いろ》が悉皆《すつかり》出《で》た事《こと》」と平生に似合はぬ観察をして、故《もと》の席《せき》に返《かへ》つた。さうして、
「兄《にい》さんが何《ど》うしましたつて」と聞き直《なほ》した。代助は先《さき》の質問を繰り返した時、嫂《あによめ》は尤も無頓着な調子で、
「何《ど》うしましたつて、例の如くですわ」と答へた。
「相変らず、留守|勝《がち》ですか」
「えゝ、えゝ、朝《あさ》も晩《ばん》も滅多に宅《うち》に居た事はありません」
「姉《ねえ》さんは夫《それ》で淋《さむ》しくはないですか」
「今更《いまさら》改《あらた》まつて、そんな事《こと》を聞《き》いたつて仕方《しかた》がないぢやありませんか」と梅子は笑ひ出《だ》した。調戯《からか》ふんだと思つたのか、あんまり小供染みてゐると思つたのか殆んど取り合ふ気色《けしき》はなかつた。代助も平生の自分を振《ふ》り返つて見て、真面目《まじめ》に斯《こ》んな質問を掛《か》けた今の自分を、寧ろ奇体に思つた。今日《こんにち》迄|兄《あに》と嫂《あによめ》の関係を長い間《あひだ》目撃してゐながら、ついぞ其所《そこ》には気が付《つ》かなかつた。嫂《あによめ》も亦代助の気が付《つ》く程物足りない素振《そぶり》は見せた事がなかつた。
「世間《せけん》の夫|婦《ふ》は夫《それ》で済《す》んで行《い》くものかな」と独言《ひ
前へ 次へ
全245ページ中183ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング