向《むか》ふの思はしくない事や、物価の高くて活計《くらし》にくい事や、親類も縁者もなくて心細い事や、東京の方へ出《で》たいが都合はつくまいかと云ふ事や、――凡て憐れな事ばかり書《か》いてあつた。代助は叮嚀に手紙を巻《ま》き返して、三千代に渡《わた》した。其時三千代は眼《め》の中《なか》に涙《なみだ》を溜《た》めてゐた。
三千代の父はかつて多少の財産と称《とな》へらるべき田畠の所有者であつた。日露戦争の当時、人の勧《すゝめ》に応じて、株に手を出して全く遣《や》り損《そく》なつてから、潔よく祖先の地を売り払つて、北海道へ渡つたのである。其後《そのご》の消息は、代助も今《いま》此手紙を見せられる迄一向知らなかつた。親類はあれども無《な》きが如しだとは三千代の兄《あに》が生きてゐる時分よく代助に語つた言葉であつた。果《はた》して三千代は、父《ちゝ》と平岡ばかりを便《たより》に生きてゐた。
「貴方《あなた》は羨《うらや》ましいのね」と瞬《またゝ》きながら云つた。代助はそれを否定する勇気に乏しかつた。しばらくしてから又、
「何《なん》だつて、まだ奥《おく》さんを御貰《おもら》ひなさらないの」と聞いた。代助は此|問《とひ》にも答へる事が出|来《き》なかつた。
十三の五
しばらく黙然《もくねん》として三千代の顔を見てゐるうちに、女の頬《ほゝ》から血《ち》の色《いろ》が次第に退《しり》ぞいて行《い》つて、普通よりは眼《め》に付く程|蒼白《あをしろ》くなつた。其時《そのとき》代助は三千代と差向《さしむかひ》で、より長く坐《すは》つてゐる事の危険に、始めて気が付《つ》いた。自然の情|合《あひ》から流《なが》れる相互の言葉が、無意識のうちに彼等を駆つて、準《じゆん》縄の埒《らつ》を踏《ふ》み超えさせるのは、今《いま》二三|分《ぷん》の裡《うち》にあつた。代助は固より夫《それ》より先《さき》へ進《すゝ》んでも、猶|素知《そし》らぬ顔《かほ》で引返《ひきかへ》し得《う》る、会話の方を心得《こゝろえ》てゐた。彼は西洋の小説を読むたびに、そのうちに出《で》て来《く》る男女の情話が、あまりに露骨《ろこつ》で、あまりに放肆で、且つあまりに直線的に濃厚なのを平生から怪《あやし》んでゐた。原語で読めば兎に角、日本には訳し得ぬ趣味のものと考へてゐた。従つて彼は自分と三千代との関係を発展
前へ
次へ
全245ページ中168ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング