る》しくなつて困つた。――
「けれども、慣《な》れつこに為《なつ》てるんだから、驚《おど》ろきやしません」と云つて、代助を見て淋《さみ》しい笑《わら》ひ方《かた》をした。
「心臓の方《ほう》は、まだ悉皆《すつかり》善《よ》くないんですか」と代助は気の毒さうな顔《かほ》で尋ねた。
「悉皆《すつかり》善《よ》くなるなんて、生涯駄目ですわ」
 意味の絶望な程、三千代の言葉は沈《しづ》んでゐなかつた。繊《ほそ》い指《ゆび》を反《そら》して穿《は》めてゐる指環《ゆびわ》を見た。それから、手帛《ハンケチ》を丸めて、又|袂《たもと》へ入れた。代助は眼《め》を俯《ふ》せた女の額《ひたひ》の、髪《かみ》に連《つら》なる所を眺めてゐた。
 すると、三千代は急に思ひ出《だ》した様に、此間《このあひだ》の小切手《こぎつて》の礼を述《の》べ出《だ》した。其時《そのとき》何だか少し頬《ほゝ》を赤くした様に思はれた。視感の鋭敏な代助にはそれが善《よ》く分《わか》つた。彼はそれを、貸借《たいしやく》に関係した羞恥《しうち》の血潮《ちしほ》とのみ解釈《かいしやく》した。そこで話《はなし》をすぐ他所《よそ》へ外《そら》した。
 先刻《さつき》三千代が提《さ》げて這入《はいつ》て来《き》た百合《ゆり》の花が、依然として洋卓《テーブル》の上《うへ》に載《の》つてゐる。甘《あま》たるい強《つよ》い香《か》が二人《ふたり》の間《あひだ》に立ちつゝあつた。代助は此|重苦《おもくる》しい刺激を鼻の先《さき》に置くに堪へなかつた。けれども無断《むだん》で、取り除《の》ける程、三千代に対《たい》して思ひ切つた振舞が出来《でき》なかつた。
「此花《このはな》は何《ど》うしたんです。買《かつ》て来《き》たんですか」と聞《き》いた。三千代は黙《だま》つて首肯《うなづ》いた。さうして、
「好《い》い香《にほひ》でせう」と云つて、自分の鼻《はな》を、瓣《はなびら》の傍《そば》迄|持《も》つて来《き》て、ふんと嗅《か》いで見せた。代助は思はず足《あし》を真直《まつすぐ》に踏《ふ》ん張《ば》つて、身《み》を後《うしろ》の方へ反《そ》らした。
「さう傍《そば》で嗅《か》いぢや不可《いけ》ない」
「あら何故《なぜ》」
「何故《なぜ》つて理由もないんだが、不可《いけ》ない」
 代助は少し眉をひそめた。三千代は顔をもとの位地に戻した。

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