であつた。
 二人《ふたり》は好《い》い心持《こゝろもち》に酒を飲《の》んだ。兄《あに》は飲《の》んで、食《く》つて、世間話《せけんばなし》をすれば其|外《ほか》に用はないと云ふ態度《たいど》であつた。代助も、うつかりすると、肝心の事件を忘《わす》れさうな勢であつた。が下女が三本目の銚子を置いて行つた時に、始めて用談に取り掛《かゝ》つた。代助の用談と云ふのは、言ふ迄もなく、此間|三千代《みちよ》から頼《たの》まれた金策の件である。
 実を云ふと、代助は今日迄まだ誠吾に無心を云つた事がない。尤も学校を出た時少々芸者買をし過《す》ぎて、其尻を兄《あに》になすり付けた覚はある。其時|兄《あに》は叱るかと思ひの外《ほか》、さうか、困り者だな、親爺《おやぢ》には内々で置けと云つて嫂《あによめ》を通《とほ》して、奇麗に借金を払つてくれた。さうして代助には一口《ひとくち》の小言《こごと》も云はなかつた。代助は其時から、兄《あにき》に恐縮して仕舞つた。其後《そののち》小遣《こづかひ》に困《こま》る事はよくあるが、困るたんびに嫂《あによめ》を痛《いた》めて事を済ましてゐた。従つて斯《か》う云ふ事件に関して兄《あに》との交渉は、まあ初対面の様なものである。
 代助から見ると、誠吾は蔓《つる》のない薬鑵《やくわん》と同じことで、何処《どこ》から手を出して好《い》いか分《わか》らない。然しそこが代助には興味があつた。
 代助は世間話《せけんばなし》の体《てい》にして、平岡夫婦の経歴をそろ/\話《はな》し始めた。誠吾は面倒な顔色もせず、へえ/\と拍子を取る様に、飲みながら、聞いてゐる。段々進んで三千代が金《かね》を借《か》りに来《き》た一段になつても、矢っ張りへえ/\と合槌を打つてゐる丈である。代助は、仕方なしに、
「で、私《わたし》も気の毒だから、何《ど》うにか心配して見様つて受合つたんですがね」と云つた。
「へえ。左様《さう》かい」
「何《ど》うでせう」
「御前《おまい》金《かね》が出来《でき》るのかい」
「私《わたし》や一文も出来《でき》やしません。借《か》りるんです」
「誰《だれ》から」
 代助は始めから此所《こゝ》へ落《おと》す積《つもり》だつたんだから、判然《はつきり》した調子で、
「貴方《あなた》から借りて置《お》かうと思ふんです」と云つて、改めて誠吾の顔《かほ》を見た。兄《あ
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