へる事が出来《でき》ない。嫂《あによめ》でも、誠太郎でも、縫子でも、兄《あに》が終日《しうじつ》宅《うち》に居て、三度の食事を家族と共に欠《か》かさず食《く》ふと、却つて珍《めづ》らしがる位である。
 だから木蔭《こかげ》に立つて、兄《あに》と肩《かた》を比《なら》べた時《とき》、代助は丁度|好《い》い機会だと思つた。
「兄《にい》さん、貴方《あなた》に少し話《はなし》があるんだが。何時《いつ》か暇《ひま》はありませんか」
「暇《ひま》」と繰り返《かへ》した誠吾は、何《なん》にも説明せずに笑つて見せた。
「明日《あした》の朝《あさ》は何《ど》うです」
「明日《あした》の朝《あさ》は浜《はま》迄|行《い》つて来《こ》なくつちやならない」
「午《ひる》からは」
「午《ひる》からは、会社の方に居る事はゐるが、少《すこ》し相談があるから、来《き》ても緩《ゆつ》くり話《はな》しちやゐられない」
「ぢや晩《ばん》なら宜《よ》からう」
「晩《ばん》は帝国ホテルだ。あの西洋人夫婦を明日《あした》の晩《ばん》帝国ホテルへ呼ぶ事になつてるから駄目だ」
 代助は口《くち》を尖《とん》がらかして、兄《あに》を凝《じつ》と見た。さうして二人《ふたり》で笑ひ出した。
「そんなに急《いそ》ぐなら、今日《けふ》ぢや、何《ど》うだ。今日《けふ》なら可《い》い。久し振《ぶ》りで一所に飯《めし》でも食《く》はうか」
 代助は賛成した。所が倶楽部《くらぶ》へでも行《ゆ》くかと思ひの外《ほか》、誠吾は鰻《うなぎ》が可《よ》からうと云ひ出した。
「絹帽《シルクハツト》で鰻《うなぎ》屋へ行くのは始《はじめ》てだな」と代助は逡巡した。
「何《なに》構《かま》ふものか」
 二人《ふたり》は園遊会を辞して、車《くるま》に乗つて、金杉橋《かなすぎばし》の袂《たもと》にある鰻屋《うなぎや》へ上《あが》つた。

       五の五

 其所《そこ》は河《かは》が流れて、柳《やなぎ》があつて、古風な家《いへ》であつた。黒《くろ》くなつた床柱《とこばしら》の傍《わき》の違《ちが》ひ棚《だな》に、絹帽《シルクハツト》を引繰返《ひつくりかへ》しに、二つ並《なら》べて置いて見て、代助は妙だなと云《い》つた。然し明《あ》け放《はな》した二階の間《ま》に、たつた二人《ふたり》で胡坐《あぐら》をかいてゐるのは、園遊会より却つて楽《らく》
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