に》は矢っ張り普通の顔をしてゐた。さうして、平気に、
「そりや、御|廃《よ》しよ」と答へた。
 誠吾の理由を聞いて見ると、義理や人情に関係がない許《ばかり》ではない、返《かへ》す返《かへ》さないと云ふ損得にも関係がなかつた。たゞ、そんな場合には放《ほう》つて置けば自《おのづ》から何《ど》うかなるもんだと云ふ単純な断定である。
 誠吾は此断定を証明する為めに、色々な例を挙げた。誠吾の門内に藤野と云ふ男が長屋を借りて住《す》んでゐる。其藤野が近頃遠縁のものゝ息子《むすこ》を頼《たの》まれて宅《うち》へ置いた。所が其子が徴兵検査で急に国へ帰らなければならなくなつたが、前《まへ》以て国から送つてある学資も旅費も藤野が使《つか》ひ込《こ》んでゐると云ふので、一時の繰り合せを頼《たの》みに来《き》た事がある。無論誠吾が直《ぢか》に逢つたのではないが、妻《さい》に云ひ付《つ》けて断《ことわ》らした。夫でも其子《そのこ》は期日迄に国へ帰つて差支なく検査を済《す》ましてゐる。夫から此藤野の親類の何とか云ふ男は、自分の持つてゐる貸家《かしや》の敷金《しききん》を、つい使《つか》つて仕舞つて、借家人《しやくやにん》が明日《あす》引越すといふ間際になつても、まだ調達が出来ないとか云つて、矢っ張り藤野から泣き付いて来《き》た事がある。然し是も断《ことわ》らした。夫でも別《べつ》に不都合はなく敷金は返せてゐる。――まだ其外にもあつたが、まあ斯《こ》んな種類の例ばかりであつた。
「そりや、姉《ねえ》さんが蔭《かげ》へ廻《まわ》つて恵《めぐ》んでゐるに違《ちがひ》ない。ハヽヽヽ。兄《にい》さんも余っ程呑気だなあ」
と代助は大きい声を出して笑つた。
「何《なに》、そんな事があるものか」
 誠吾は矢張当り前の顔をしてゐた。さうして前にある猪口を取つて口《くち》へ持つて行つた。

       六の一

 其日誠吾は中々《なか/\》金《かね》を貸して遣《や》らうと云はなかつた。代助も三千代《みちよ》が気の毒だとか、可哀想だとか云ふ泣言《なきごと》は、可成避ける様にした。自分が三千代に対してこそ、さう云ふ心持もあるが、何にも知らない兄《あに》を、其所《そこ》迄|連《つ》れて行くのには一通りでは駄目だと思ふし、と云つて、無暗にセンチメンタルな文句を口《くち》にすれば、兄《あに》には馬鹿にされる、ばかりではな
前へ 次へ
全245ページ中53ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング