文學書には※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ーナスとかバツカスとかいふ呑氣《のんき》な名前は餘《あま》り出て來ないやうです。希臘《ギリシア》のミソロジーを知らなくても、イブセンを讀むには殆《ほと》んど差支《さしつかへ》ないでせう。もつと皮肉にいふと、人生に切實な文學には遠い昔しの故事や故典は何《ど》うでも構《かま》はないといふ所に詰《つま》りは落ちて來さうです。あなたもそれは御承知でせう。それでゐてこんな夢のやうなものを八ヶ月もかゝつて譯したのは、恐らく餘《あま》りに切實な人生に堪へられないで、古い昔の、有つたやうな又無いやうな物語に、疲れ過ぎた現代的の心を遊ばせる積《つも》りではなかつたでせうか、もし左右《さう》ならば私も全く御同感です。其意味を面倒に述べ立てるのは大袈裟《おほげさ》だから止《よ》しますが、私は自分で小説を書くと其《その》あとが心持ちが惡い。それで呑氣《のんき》な支那《しな》の詩などを讀んで埋め合せを付けてゐます。夫《それ》から大病中|徒然《つれづれ》を慰《なぐさ》めるため繪(繪といふ名はちと分《ぶん》に過ぎるから、繪のやうなものと云つた方が適切ですが)其《その》
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