る、味覚の殿堂といつてゐるだけ満員繁昌だ。
砂吐流の新居春風亭[#「春風亭」に傍点]に泊る。
四月九日[#「四月九日」に二重傍線] 小雨――曇。
朝からビールを飲む。
いつしよに出かける、君は丸ビルへ、私はかたこと[#「かたこと」に傍点]庵へ。
武蔵野はなつかしい、うつくしい。
運よく斎藤さん在庵。
同道して徳富健次郎の墓に詣でる。
櫟林のところ/″\に辛夷の白い花ざかり。
青樫荘に前田夕暮氏を訪ふ。
さらに青木健作氏を訪ふ、三十余年ぶりの再会である、でも、昔なつかしい面影は失はれてゐなかつた。
やがて農平君も来訪、四人で歓談、夜の更けるのも忘れて。
斎藤さんは健作君の宅で、私は農平君の宅に泊めて貰ふ。
まことにまことに珍らしい会合であつた。
四月十日[#「四月十日」に二重傍線] 曇。
春寒、ばら/\雨。
みんないつしよに出発、そしてそれ/″\の方向へ別れた。
東京ビルに茂森君徃訪、なつかしかつた、連れられて自働車で新宿へ出て、或るおでんやで飲む、そしてまた十二社へ、酒と女とがあつた。
私は自働車で浅草へ、そこで倒れてしまつた。
友、友、友、友、友。
四月十一日[#「四月十一日」に二重傍線] 曇。
農平君の案内で江戸川の花見に出かける、桜はまだ蕾だ、掛茶屋の赤前垂が黄色い声で客を呼んでゐるばかりだが、飲む酒はある。……
柴又にまわつて川甚でも飲む。
私はまた浅草へ。
四月十二日[#「四月十二日」に二重傍線] 曇。
おめでたいおのぼりさんとして。
山谷の安宿に泊る、泊るだけは二十五銭。
四月十三日[#「四月十三日」に二重傍線] 雨。
濡れて層雲社へ帰る、武二君が私の行方不明を心配してゐたさうで、私の癖とはいひながらすまなかつた。
夜は銀座へ、丸ビル人会出席。
かう酒ばかり飲んでゐては困る!
四月十四日[#「四月十四日」に二重傍線] 晴。
さくらが咲いた、散歩、赤坂見附はよい風景だつた。
武二君と共に迎へられて磊々子居へ。
磊々居滞在。
四月十五日[#「四月十五日」に二重傍線] 花ぐもり。
朝湯朝酒とは有難すぎる、身にあまる冥加である。
二人でぶら/\歩く、Iさんのお宅で御馳走になる、天ぷら蕎麦、冷酒、池上本門寺、よい森、松がよい。
高輪泉岳寺、香烟がたえない。
それから明治座へ、面白かつた、井上はやつぱりうまい。
銀座裏で飲んで食べる、おけさ飯とアブサン。
東京は広い、時代錯誤場所錯誤。
四月十六日 曇つたり晴れたり。
東京では遊びすぎた、やうやく東京を離れる、磊々子夫妻の温情は身にしみて有難かつた。
琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]洞訪問、あやにく不在、その代りに多摩川観賞、二子橋畔春風習[#「習」に「マヽ」の注記]々春光熈々。
雷にどなられ霙にたゝかれた。
風がふいて蛙がないてゐる。
戸塚の松並木は美しかつた。
やつと藤沢で寝床を見つけた。
自分らしく、旅人らしく。
四月十七日 伊東温泉伊東屋。
晴、うらゝかだつた。
茅ヶ崎まで歩く、汽車で熱海まで、そこからまた歩く、行程七里、労れた。
富士はほんたうに尊い、私も富士見西行[#「富士見西行」に傍点]の姿になつた。
熱海はさすがに温泉郷らしい賑やかさだつた、伊東も観光祭。
今日の道は山も海も美しかつたけれど自働車がうるさかつた。
山の水をぞんぶんに飲んだ、をり/\すべつたりころんだりした。
旅のおもしろさ、旅のさびしさ。
[#ここから2字下げ]
・松並木がなくなると富士をまともに
・とほく富士をおいて桜まんかい
[#ここで字下げ終わり]
四月十八日 滞在、休養、整理。
伊豆はさすがに南国情調だ、麦が穂に出て燕が飛びかうてゐる。
○伊豆は生きるにも死ぬるにもよいところである。
○伊豆は至るところ花が咲いて湯が湧く、どこかに私にふさはしい寝床はないかな!
大地から湧きあがる湯は有難い。
同宿同行の話がなか/\興味深い、トギヤ老人、アメヤクヅレ、ルンペン、ヘンロ、ツジウラウリ。……
焼酎をひつかけてぐつすり眠つた。
[#ここから2字下げ]
・なみおとのさくらほろほろ
・春の夜の近眼と老眼とこんがらがつて
・伊豆はあたゝかく死ぬるによろしい波音
・湯の町通りぬける春風
[#ここで字下げ終わり]
四月十九日 雨、予想した通り。
みんな籠城して四方山話、誰も一城のいや一畳の主だ、私も一隅に陣取つて読んだり書いたりする。
午后は晴れた、私は行乞をやめてそこらを見物して歩く、浄の池[#「浄の池」に傍点]で悠々泳いでゐる毒魚。
伊東はいはゆる湯町情調が濃厚で、私のやうなものには向かない。
波音、夕焼、旅情切ないものがあつた。
一杯ひつかける余裕はない、寝苦しい一夜だつた。
[#ここから2字下げ]
(伊東町)
・をなごやの春もにぎやかな青木の実
・まいにち風ふくからたちの芽で
・はる/″\ときて伊豆の山なみ夕焼くる
・かうして生きてゐることが、草の芽が赤い
[#ここで字下げ終わり]
四月二十日 快晴、下田へ出立する。
川奈ゴルフ場、一碧湖、富戸の爼岩、光の村、等々を横眼で眺めつゝ通りすぎる、雑木山が美しい、天城連山が尊い、山うぐひすが有難い。
風、風、強い風が吹く、吹きまくられつゝ歩く、さびしい、つかれる。
赤沢あたりから海岸の風景が殊によろしくなる、茫々たる海、峨々たる巌、熱川温泉に安宿があるといふので下つて行つたが断られた、稲取へ暮れて着いて宿をとつてほつとした、行程八里強。
[#ここから2字下げ]
・芽ぶくより若葉する湯けむりをちこち
・山路あるけば山の鴉がきてはなく
[#ここで字下げ終わり]
四月二十一日 谷津温泉、一郎居。
しづかな、わびしい宿だつた、花屑がそこらいちめんに散りしいてゐた。
昨夜のルンペン君と別れる、今生ふたゝび逢ふことはなからう。
今日も晴れて風が吹く。
今井浜は伊豆舞子とよばれるだけあつて海浜がうつくしい。
行程三里弱、午前中に谷津の松木一郎君を訪ねる、一郎居は春風駘蕩だ、桜の花片が坐敷へ散り込む。
メロン、トマトを御馳走になる、それは君の手作りだ、内湯[#「内湯」に傍点]の御馳走は何より。
[#ここから2字下げ]
・うら/\石仏もねむさうな
[#ここで字下げ終わり]
四月二十二日
雨、ふと眼覚めて耳を疑つた。
こゝはほんたうにあたゝかい、もう牡丹が咲いて、蚊が出てくる。
温泉は湧出量が豊富で高温である、雑木山の空へ噴き上げる湯煙の勢よさ。
今日の雨はまことによかつた。
△ △ △
朝湯[#「朝湯」に傍点]のあつさよろしさありがたさ。
朝酒[#「朝酒」に傍点]とは勿体なし。
△ △ △
ほんたうでない[#「ほんたうでない」に傍点]、といつて[#「といつて」に傍点]、うそでもない生活[#「うそでもない生活」に傍点]、それが私の現在だ。
[#ここから1字下げ]
△洗濯[#「洗濯」に傍点]、身も心も内も外も。
△花菖蒲の輸出。
△栖足寺の甕(銘は祖母懐、作は藤四郎)
[#ここで字下げ終わり]
四月二十二日[#「四月二十二日」に二重傍線] 花時風雨多、まつたくその通りの雨風だつた。
熱い湯を自分で加減して何度も入浴する、奥さんが呆れて笑はれる。
湯、そして酒、あゝ極楽々々。
午後だん/\晴れる、一郎君といつしよに下田へ向ふ。
山蕗[#「山蕗」に傍点]が咲きほうけてゐる、ふきのとうが伸びて咲いて、咲きをへてゐるのである。
○伊豆の若葉はうつくしい。
白浜の色はほんたうに美しかつた、砂の白さ、海のみどり。
大[#「大」に「マヽ」の注記]平洋をまへに、墓をうしろに、砂丘にあぐらをかいて持参の酒を飲んだ。
至るところに鉱山、小さい金鉱があつた、それも伊豆らしいと思はせた。
下田近くなると、まづ玉泉寺があつた、維新史の第一頁を歩いてゐるやうだ。
浜崎の兎子居に草鞋をぬぐ、そして二三子と共に食卓を囲んで話しつゞける。
酔ふて書きなぐる、いつもの私のやうに。
そして一郎君と枕をならべて熟睡。
伊豆は、湯[#「湯」に傍点]はよいけれど水[#「水」に傍点]はよろしくない、温泉地のどこでもさうであるやうに。
伊豆に多いのは旅宿の立看板[#「立看板」に傍点]と隧道[#「隧道」に傍点]と、そしてバス。
[#ここから2字下げ]
・この木もあの木もうつくしい若葉
・別れようとして水を腹いつぱい
[#ここから1字下げ]
△天草を干しひろげる
△来の宮神社の禁酒デー
[#ここで字下げ終わり]
四月二十三日[#「四月二十三日」に二重傍線] 曇、うすら寒い。
朝早く、二人で散歩する、風が落ちて波音が耳につく、前はすぐ海だ。
牡丹の花ざかり、楓の若葉が赤い。
蛙が鳴く、頬白が囀づる。
辨天島は特異な存在である、吉田松蔭[#「蔭」に「マヽ」の注記]の故事はなつかしい。
九時すぎ、三人で下田へ、途中、一郎君と別れる、一郎君いろ/\ありがたう。
稲生沢川を渡ればまさに下田港[#「下田港」に傍点]だ、港町情調ゆたかであらう、私は通りぬけて下賀茂温泉へ。
留置の手紙は二通ありがたかつた。
雑木山がよい姿と色とを見せてくれる。
下賀茂は好きな温泉場である、雑木山につゝまれて、のびやかな湯けむりがそここゝから立ち昇る、そここゝに散在してゐる旅館もしづかでしんみりとしてゐる。
その一軒の二階に案内された、さつそく驚ろくべき熱い強塩泉[#「強塩泉」に傍点]だ、ぽか/\あたゝまつてからまた酒だ、あまり御馳走はないけれどうまい/\。
兎子君が専子君を同伴して紹介された、三人同伴で専子居へ落ちつく、兎子君は帰宅、私と専子君とはまた入浴して、そして来訪のSさんと飲みだした。
今夜も酔ふて、しやべつて、書きなぐつた、湯と酒とが無何有郷に連れていつてくれた、ぐつすりねむれた。……
ノンキだね、ゼイタクだね、ホガらかだね、モツタイないね!
[#ここから2字下げ]
・波音強くして葱坊主
・道は若葉の中を鉱山へ
・けふのみちはすみれたんぽゝさきつゞいて
・すみれたんぽゝこどもらとたはむれる
[#ここから1字下げ]
△黒船襲来、異人上陸で、里人は牛を連れて山へ逃げたさうな。
△黒船祭の前日。
[#ここで字下げ終わり]
四月二十四日[#「四月二十四日」に二重傍線] 晴、后曇。
早朝、川ぶちの共同湯にはいる、底から湧きあがつてくる湯のうれしさ。
湯けむりが白く雑木若葉へひろがつてゆく、まことに平和な風景。
七時のバスで出発、松崎へ急ぐ。
峠のながめはよかつた、山また山、木といふ木が芽ぶいて若葉してかゞやく。
バスガールと運ちやんとの会話、お客は私一人。
九時松崎着、海岸づたいに歩く。
昨夜、飲みすぎたので、さすがの私も弱つてゐる、すべつてころんで向脛をすりむいだ[#「だ」に「マヽ」の注記]。
遠足の小学生がうれしさうにおべんたうを持つてゆく、私の頭陀袋にも一郎君から貰つた般若湯が一壜ある。
田子からすみれ丸に乗つて沼津へ。
今夜は土肥温泉に泊る筈だつたがその予定を変更したのである、だいたい私の旅に予定なんかあるべきでない、ゆきあたりばつたり、行きたいだけ行き、留まりたいところに留まればよいのである、山頭火でたらめ道中[#「山頭火でたらめ道中」に傍点]がよろしいのである、ふさはしいのである。
凪で気楽で嬉しい海上の三時間だつた。
沼津に着いたのは五時、やうやく梅軒を探しあてゝ客となる。
夜は句会、桃の会の方々が集まつて楽しく談笑句作した。
[#ここから2字下げ]
・明けてくる若葉から炭焼くけむり
・山のみどりを分けのぼるバスのうなりつゝ
・鴉さわぐそこは墓地
・水平線がうつくしい腰掛がある
・山の青さ海の青さみんな甲板に
(田子浦)
・そこらに島をばらまいて春の波
[#ここから1字下げ]
△さよなら伊豆よ
やつて来ましたぞ駿河
△伊豆めぐりで
[#ここから3字下げ]
東海岸は陸から海を
西海岸は海から陸を観賞した
[#ここで字下げ終わり]
四月二十五日[#「四月二十五日」に
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