匂い、埃及《エジプト》煙草の口を切ったときの匂い、親友から来た手紙の封を破ったときの匂い。……
 穏かな興奮と軽い好奇心と浅い慾望と。……
       ○
 一度行った土地へは二度と行きたくない。一度泊った宿屋へは二度と泊りたくない。一度読んだ本は二度と読みたくない。一度遇った人には二度と遇いたくない。一度見た女は二度と見たくない。一度着た衣服は二度と着たくない――一度人間に生れたから、一度男に生れたから、一度此地に生れたから、一度此肉躰此精神と生れたから。……
 一度でなくして二度となったとき、それは私にとって千万度繰り返すものである。終生□れ難い、離れ得ないものである。
       ○
 いつまでもシムプルでありたい、ナイーブでありたい、少くとも、シムプルにナイーブに事物を味わいうるだけの心持を失いたくない。
 酒を飲むときはただ酒のみを味わいたい、女を恋するときはただ女のみを愛したい。アルコールとか恋愛とかいうことを考えたくない。飲酒の社会に及ぼす害毒とか、色情の人生に於ける意義とかいうことを考えたくない。何事も忘れ、何物をも捨てて――酒というもの、女性というものをも考えずし
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