てくたぶれて帰つたのは十二時近かつたらう。
二月五日[#「二月五日」に二重傍線] 曇、小雨。
昨夜の飲みすぎ食べすぎで、胃のぐあいがよくない、何となく身心の重苦しさを覚える。
身辺整理。――
呂竹さん来庵、香奠返しとして砂糖を頂戴する、落ちついてしんみりと亡き妻を語り句を語る呂竹さんはいかにも呂竹さんらしい、私はいつものやうに、山頭火らしく、私自身を語り、そして句を語つた。
樹明君から借りた井月全集[#「井月全集」に傍点]を読む。
今日も有耶無耶で暮れてしまつた[#「今日も有耶無耶で暮れてしまつた」に傍点]、それはちようど私の一生が有耶無耶で過ぎるやうに[#「それはちようど私の一生が有耶無耶で過ぎるやうに」に傍点]。――
[#ここから1字下げ]
物を広く探るよりも[#「物を広く探るよりも」に傍点]、心を深く究める[#「心を深く究める」に傍点]。
単純にして深遠[#「単純にして深遠」に傍点]。
東洋精神、日本精神、俳句精神。
直観。
自我帰投。
[#ここで字下げ終わり]
二月六日[#「二月六日」に二重傍線] 晴――曇。
めつきり春めいて来た。――
句稿二篇、やうやく書きあげて発送。
夜、買物がてら街へ出かけて、一杯また一杯、すつかり酔つぱらつたが、おとなしく戻つて寝た、めでたしめでたし。
二月七日[#「二月七日」に二重傍線] 晴れたり、曇つたり、雪がふつたり。
寒いことは寒いけれど春寒、身にも心にも天にも地にも春を感じる。
春の小鳥がやつてきて春の歌をうたふ。
藪椿がいよ/\うつくしい。
思いがけなく道明寺糒[#「道明寺糒」に傍点]といふものを頂戴した。
おくればせながら、賀状のかへしを書いてポストへ(私のづぼらは救ひがたい)、ついでに油買、途中例によつて、一杯ひつかけたいのをやつとこらへた!
寥平君への返事に――
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……お互に老来ます/\惑ひ深く恥多き嘆に堪へませんね、……アメリカ行は面白いでせうが、それよりも早く冥土行[#「冥土行」に傍点]が実現しさうですね。……
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Kさんに――
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……万物は在るところのものに成りますが[#「万物は在るところのものに成りますが」に傍点]、成るやうに成らせる外ありませんね[#「成るやうに成らせる外ありませんね」に傍点]、……さういふ心がまへで生きて行きませう。……
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万葉集より
○かくばかり恋ひつつあらずば高山の磐根しまきて死なましものを 磐姫皇后
○吾はもや安見児得たり皆人の得がてにすとふ安見児得たり 藤原鎌足
○足引の山のしづくに妹まつと吾たちぬれぬ山のしづくに 大津皇子
○淡海の海夕波千鳥汝が鳴けばこころもしぬに古へおもほゆ 柿本人麿
・○家にあれば笥にもるいひを草枕旅にしあれば椎の葉にもる 有馬皇子
・○鴨山の磐根しまける吾をかも知らにと妹は待ちつつあらむ 柿本人麿
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(石見高角、美濃郡海岸)
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○憶良らは今はまからむ子泣くらむ其彼母も吾をまつらむ 山上憶良
○昔こそよそにも見しかわぎも子がおくつきと思へばはしき佐保山 大伴家持
○神風の伊勢の浜萩折りふせて旅寝やすらむあらき浜辺に 碁提磯妻
○わが背子は物な思ひそ事あらば火にも水にもわれなけなくに 安倍女郎
○千鳥なく佐保の河瀬のさざれ波やむ時もなし吾が恋ふらくは 大伴坂上女郎
┌○あしびきの山の雫に妹待つと吾立ち濡れぬ山の雫に 大津皇子
└○吾を待つと君が濡れけむあしびきの山の雫にならましものを 石川郎女
○健ら男や片恋せむと歎けども醜の健ら男なほ恋ひにけり 舎人皇子
○小竹《サヽ》の葉はみ山もさやにさやげどもわれは妹思ふ別れ来ぬれば 柿本人麿
[#ここで字下げ終わり]
二月八日[#「二月八日」に二重傍線] 曇、小雪。
いちめんのわすれ雪、思ひ出したやうに降る。
生活力[#「生活力」に傍点]のはかないのに自分ながら呆れる。
机上の梅がやうやく開かうとしてゐる。
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讃酒歌 以白酒為賢者 以清酒為聖人[#「聖人」に傍点]
大伴旅人(万葉集)
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しるしなき物を思はずは一|杯《ツキ》のにごれる酒を飲むべく有らし
賢こみて物いふよりは酒のみて酔泣するしまさりて有らし
言はむすべせむすべ知らに極まりて貴きものは酒にし有るらし
なかなかに人とあらずば酒壺になりてしがも酒にしみなむ
あなみにくさかしらをすと酒のまぬ人をよく見れば猿にかも似む
もだをりて賢しらするは酒のみてゑひ泣するに尚しかずけり
[#ここから5字下げ]
大隈言道(草径集)
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なき時はなくて幾日かすぐすらむある日は酒のあるにすきつつ
今日は今日あらむ限はのみくらし明日のうれへは明日ぞうれへむ
・わが如く酒にいふらし音立ててうてはうつ手をまぬる山彦
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橘曙覧(志濃夫廼舎集)
[#ここから1字下げ]
・とくとくとたりくる酒のなりひさご嬉しき音をさするものかな
菊かをるまがきの下にゑひたふれ南の山のからうたうたふ
・床になくこほろぎ橋を横に見てゑひたふれたるねごこちのよさ
[#ここで字下げ終わり]
二月九日[#「二月九日」に二重傍線] 雪。
ずゐぶん冷える、終日臥床、死について考へつゞける、……死ぬることはむつかしい、死場所、死の方法……死の準備[#「死の準備」に傍点]、それが私に残された唯一の仕事だ!
道明寺糒を食べる、未知の友の温情を味ふ。
二月十日[#「二月十日」に二重傍線] 曇。
動けない。――
俳句を通して、心と心とが触れ合ふ(来信を読みつゝ)。
二月十一日[#「二月十一日」に二重傍線] 晴。
日本晴だ。
紀元節、建国祭、今日から国民総動員第二強調週間。
憲法発布五十年祝賀式典。
天地の間にりんりんたるものがある[#「天地の間にりんりんたるものがある」に傍点]。
午後、樹明君来庵、同道して暮羊君を見舞ふ、酒肴の御馳走になり、餅を貰うて帰庵。
酒はうまい、餅はうまい……みんなうまい!
二月十二日[#「二月十二日」に二重傍線] 晴。
春日和。――
身のまはりをかたづける、いつでも死ねるやうに!
糒と餅と、そして味噌と砂糖と、それだけ!
夕暮、油買ひに街へ、例によつて一杯、あゝ極楽々々。
歯がぬけた、さつぱりした、その歯は残つてゐる四枚の中の一枚で、歯として役立たないばかりでなく、気にかゝる邪魔物であつた。
二月十三日[#「二月十三日」に二重傍線] 晴――曇――雨。
まさしく春だ!
あたゝかい飯が食べたい!
今日はとてもあたゝかだつた、夜になつてあたゝかすぎる雨が降りだした。……
二月十四日[#「二月十四日」に二重傍線] 曇。
いかにも春雨らしく降つた。
沈欝たへがたし、うつら/\昼夜なし。
更けてよい月夜になつた、十五夜らしい。
[#ここから1字下げ]
飢は甘味を要求する、疲れも同様に。
辛味苦味は食慾を増進する。
酸味は――酢物は酒としつくり調和する。
[#ここで字下げ終わり]
二月十五日[#「二月十五日」に二重傍線] 晴――曇。
春が来た、春が来た、空から太陽から、土から草から、いろんな虫が出て来て飛んだり這うたり、――だが、私は冬ごもりの暗い穴から抜け出せない。
今日も糒ばかり食べてゐて苦しかつたけれど、自信のある句がつぎ/\に作れてうれしかつた。
夜はいつまでも眠れなくて読書した、米もなくてはならないものだが、本もなくてはならないものだ。
二月十六日[#「二月十六日」に二重傍線] 曇――雨。
食養不足、睡眠不足で身心不調。
頭痛、腹痛、そして心痛、――不死身[#「不死身」に傍点]にちかい私も少々弱つた。
専念に句作し推敲する。――
今夜も不眠、読書する外なかつた。
酒よりも飯を、肉よりも野菜を要求する。
[#ここから1字下げ]
利休が茶の湯の心得を説いた言葉の中に、
花はその花のやうに[#「花はその花のやうに」に傍点]
といふ一項があつた、うれしい言葉である。
物のいのちを生かし[#「物のいのちを生かし」に傍点]、物の徳を尊ぶ心[#「物の徳を尊ぶ心」に傍点]、それが芸術であり道徳であり、宗教でもある。
[#ここで字下げ終わり]
二月十七日[#「二月十七日」に二重傍線] 晴、後、曇。
春寒、身心平静。
風、風、風はやりきれない。
此頃は死ぬる人が多い、用意はよいか!
夕方、街へ出かける、W屋N屋の好意で、たらふく飲んで食べて、そして寝た、近頃にない痛飲、陶酔、熟睡であつた、分別も苦労も何もかもなくなつてしまつた! めでたしめでたし、大いにめでたし。
二月十八日[#「二月十八日」に二重傍線] 晴、曇、霙。
寒さが逆戻りした。
九日ぶりに御飯を食べる、しみ/″\しみ/″\味つた。
風が吹く。
蕗の薹を二つ見つけた。
自戒自粛、つゝましくおちついて読書。
やすらかに睡つた。
[#ここから1字下げ]
感動[#「感動」に傍点]こそ詩の母胎である。
沈黙の言葉[#「沈黙の言葉」に傍点]。
自然の心、人間の心、物のあはれ[#「物のあはれ」に傍点]。
自己に徹して自然に徹するを得。
自然に徹するは自己に徹するなり。
自然をうたふは自己をうたふなり。
民族詩[#「民族詩」に傍点]、日本民族詩としての俳句。
ユーモアのある句、[#ここから横組み]“Humorous Haiku”[#ここで横組み終わり]
[#ここで字下げ終わり]
二月十九日[#「二月十九日」に二重傍線] 晴、曇。
夜が明けると起き、日が暮れると寝た。
二月廿日[#「二月廿日」に二重傍線] 曇。
太陽と共に[#「太陽と共に」に傍点]、――小鳥と共[#「小鳥と共」に傍点]に。――
暮羊君来庵。
草庵無事、たゞ無事。
二月廿一日[#「二月廿一日」に二重傍線] 晴。
沈欝。――
二月廿二日[#「二月廿二日」に二重傍線] 曇、雪。
寝苦しくて朝寝。
Kからの手紙はうれしくもありかなしくもあつた、安心と心配とをもたらした。
六日ぶり外出、買物いろ/\、米、醤油、茶、等々、払へるだけ払ひ、買へるだけ買ふ。
湯田まで出かけて、二十日ぶりに入浴、二三杯ひつかける、たうとうS屋に泊つた。
二月廿三日[#「二月廿三日」に二重傍線] 曇。
十時帰庵、自分の寝床がうれしい。
新若布がうまい、高いことも高いが(百目壱円三十銭だつた)。
二月廿四日[#「二月廿四日」に二重傍線] 晴――曇――霙。
晴れると春、曇れば冬、内は春、外は冬。
おちついて読書。――
二月廿五日[#「二月廿五日」に二重傍線] 晴。
薄雪薄氷がうらゝかな日光で解けて雫する。
N、Fの二君、汽車辨当持参で来訪、あべこべに御馳走になつた、ありがたう。
樹明君から来信、あゝ私はどうすることも出来ない、すまない、私には何のあて[#「あて」に傍点]もない。
――炭がなくなつた、米もなくならうとしてゐる、命よ、むしろなくなつてしまへ!
二月廿六日[#「二月廿六日」に二重傍線] 晴。
春が来たのに。――
[#ここから1字下げ]
おのれを語る
生活能力[#「生活能力」に傍点]を持たない私は生活意慾[#「生活意慾」に傍点]をも失ひつゝある、あたりまへすぎるみじめさだ。
業《ゴウ》、業、何事も業であると思ふ、私が苦悩しつゝ酒を飲むことも、食ふや食はずで句を作ることも。――
句を作る、よい句を作る、――その一事に私の存在はつながれてゐる。
酒を飲む、うまい酒を飲む、――その一事に私の生活はさゝへられてゐる。
[#ここで字下げ終わり]
二月廿七日[#「二月廿七日」に二重傍線] 好晴。
霜、春の霜、太陽、春の太陽。
午後散歩する、といふよ
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