りも彷徨[#「彷徨」に傍点]する、あれやこれやと気になつて落ちついてゐられない。
春風しゆう/\、雲雀がうたひ草が咲いてゐる、あたゝかすぎるほどあたゝかだつた。

 二月廿八日[#「二月廿八日」に二重傍線] 晴。

春はうれしや、貧乏のつらさ!
炭だけはK店から借りたが、さて米はどうするか、また絶食するか、貧乏はつらいね!
人に教へられたというて、中年の放浪者が訪ねて来た、俳行脚をつゞけてゐるといふ、対談しばらく、短冊一枚書かされた、世間師としては、彼は好感の持てる人柄だつた。
私もいよ/\旅に出ようと思ふ、旅のことをいろ/\考へてゐるうちに夜が明けてしまつた。
身心が何となくのび/\した、あゝ旅と酒とそして句[#「旅と酒とそして句」に傍点]。
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省みて疚しくない生活[#「省みて疚しくない生活」に傍点]。
プラスマイナスのない世界[#「プラスマイナスのない世界」に傍点]。
[#ここで字下げ終わり]

 三月一日[#「三月一日」に二重傍線] 晴。

春風春水一時到、といつたやうな風景。
身辺整理。
ありがたや、火鉢に火がある(なさけなや、米桶に米はなくなつてしまつたが)。
句稿二篇書きあげる、さつそくポストへ。
W店で飲む、酔つぱらつて、また泊つてしまつた。

 三月二日[#「三月二日」に二重傍線]

酔境に東西なく[#「酔境に東西なく」に傍点]、酔心に晴曇なし[#「酔心に晴曇なし」に傍点]。

 三月三日[#「三月三日」に二重傍線] 曇。

さみしくも風が吹く。……

 三月四日[#「三月四日」に二重傍線] 曇。

沈欝。――
フアブルの昆虫記を読む。
初蛙が枯草の中で二声鳴いた。
昨日も今日も絶食、そして明日!
たうとう不眠、長い長い夜であつた。
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春風の吹くまま咲いて散つて行く[#「春風の吹くまま咲いて散つて行く」に傍点](旅出)
[#ここで字下げ終わり]
わざとかういふ月並一句を作つてこゝに録して置く。
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其中雑感
  戦争、貧乏、孤独。
  散歩、酒、業《ゴウ》。
俳諧乞食業。
定型と伝統。
  歴史的必然。
旅で拾うた句。
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 三月五日[#「三月五日」に二重傍線] 曇――雨。

身心平静、今日もまた絶食、落ちついて万葉鑑賞、万葉集は尊い古典である、動かされ、教へられ、考へさせられることが多くて、おのづから頭が下る。
四日ぶりに外出、梅は満開、椿ぽたぽた、今年の梅は厳寒のために蕾が堅かつたが、数日来の暖気でトーチカもたちまちくづれてしまつた。
外出途中、今日はとても飲みたかつたが、ぢだんだ踏んで我慢した、善哉々々!
政府対議会(軍部対議会といつた方が痛切だらう)、その接触交渉がなか/\微妙らしい、大西少佐の失言、政党本部占拠事件、右翼(?)の安部党首襲撃、等々、物情何となく騒然としてゐる、上下左右新旧の摩擦相剋は相当深酷らしく考へられる。
日本はどうなるか、どうすればよいか、どうしなければならないかは日本人自身が解決しないではゐられない問題である(私のやうなものでも思案してゐる!)。
……私は遂に無能無才、身心共にやりきれなくなつた、どうでもかうでも旅にでも出て局面を打開し[#「開し」に「マヽ」の注記]なければならない、行詰つた境地からは真実は生れない、……窮余の一策として俳諧の一筋をたよりに俳諧乞食旅行[#「俳諧乞食旅行」に傍点]に踏み出さう!
火燵が入[#「入」に「マヽ」の注記]らなくなつた、火鉢も僅かの火ですむやうになつた、ありがたいありがたい、それにしても私のやうに大飲したり大食しないですむやうな生活方法はないものだらうか!
食ふや食はずでも句は出来る[#「食ふや食はずでも句は出来る」に傍点]、こんなに苦しんでゐて[#「こんなに苦しんでゐて」に傍点]、しかも句が作れることは[#「しかも句が作れることは」に傍点]、何といつてもうれしい[#「何といつてもうれしい」に傍点]。
今夜も眠れない、疲れてはゐるが興奮してゐる、おい山頭火しつかりしろ、おちつけおちつけ!

 三月六日[#「三月六日」に二重傍線] 曇、をり/\雨。

地久節。
亡母四十七年忌、かなしい、さびしい供養、彼女は定めて、(月並の文句でいへば)草葉の蔭で、私のために泣いてゐるだらう!
今日は仏前に供へたうどんを頂戴したけれど、絶食四日で、さすがの私も少々ひよろ/\する、独坐にたへかね横臥して読書思索。
万葉集を味ひ、井月句集を読む、おゝ井月よ。
家のまはりで空気銃の音が絶えない、若者たちよ、無益の殺生をしなさるなよ。
どうしたのか、今朝は新聞が来ない、今日そのもの[#「今日そのもの」に傍点]が来ないやうな気がする。
ほんたうに好い季節、障子を開け放つて眺める。
蜘蛛が這ふ、蚊が飛ぶ、あまり温かいので。
裏山で最初の笹鳴を聴いた。
夜は雨風になつた、さびしかつた、寝苦しかつた。
いよ/\アブラが切れてしまつた!
いつとなく、ぐつすり睡つた。
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  (序詩)
天[#「天」に傍点]、我を殺さずして詩を作らしむ[#「我を殺さずして詩を作らしむ」に傍点]
我生きて詩を作らむ[#「我生きて詩を作らむ」に傍点]
まことの詩[#「まことの詩」に傍点]、我みづからの詩[#「我みづからの詩」に傍点]
天そのものの詩を作らむ[#「天そのものの詩を作らむ」に傍点]――作らざるべからず[#「作らざるべからず」に傍点]
  (逍遙遊)
ほんたうの人間は行きつまる
行きつまつたところに
新らしい世界がひらける
なげくな、さわぐな、おぼるるな
  (旅で拾ふ)
のんびり生きたい
ゆつくり歩かう
おいしさうな草の実
一ついただくよ、ありがたう
[#ここで字下げ終わり]

 三月七日[#「三月七日」に二重傍線] 晴れたり曇つたり、そして降つたり。

春寒、あたりまへのよろしさ。
――来ない、来ない、ほんに待つ身はつらい!
しづかに紫蘇茶をすゝる。
とても起きてはゐられない、からだがふら/\する、また火燵を出して寝る、そして読書、反省、追想、思索。
今朝はいつのまにやら新聞が来てゐる、新聞を読んで、時事を知り時代を解することは私たちのつとめ[#「つとめ」に傍点]であり、なぐさめ[#「なぐさめ」に傍点]であり、勉強でもある、新聞はありがたいもの[#「ありがたいもの」に傍点]だ。
寝てゐたが、たまらなくなつて出かける、やうやくにして米と酒と石油とを少々借ることが出来た(日頃の馴染ではあるけれど、家も名も知らない私のやうなものに快く貸して下さつたS店の妻君とM老人とに感謝する)。
六日ぶりに飯を食べ酒を飲んだ、まことにそれは御飯[#「御飯」に傍点]であり、お酒[#「お酒」に傍点]であつた! 味うてゐるうちに眼がくらむやうな心地であつた、ほつとするよりがつかりしたやうに。
雨露のめぐみ[#「雨露のめぐみ」に傍点]といつたやうなものをしみ/″\感ずる、衆生の恩[#「衆生の恩」に傍点]を感ずる。
――泣くな、怒るな、耽るな。……
飯の味、酒の味、人の味[#「人の味」に傍点]、――生活の味。
おかずがないので、鰯のあたま[#「鰯のあたま」に傍点]を味ふ。
――私は自覚する、私の句境[#「句境」に傍点]――といふよりも私の人間性[#「人間性」に傍点]――は飛躍した、私は飛躍し飛躍し飛躍する、しかし私は私自身を飛躍しない[#「私は私自身を飛躍しない」に傍点]、それがよろしい、それで結構だ、私は飽くまで私だ、山頭火はいつでも山頭火だ!
人間至るところ、山あり水あり、飯あり、酒あり、――さういふ人生でなければならない。
ゆつたりとしてしづかなよろこびが湧いて溢れた。
[#ここから1字下げ]
戦争――悲惨なる事実――存在の必然[#「必然」に傍点]――生物の悲劇。――
よくてもわるくてもほんたう[#「よくてもわるくてもほんたう」に傍点]。
先づ何よりもうそのない生活[#「うそのない生活」に傍点]、それから、それから。
物そのものを尊ぶ[#「物そのものを尊ぶ」に傍点]、物そのものゝために惜しみ[#「物そのものゝために惜しみ」に傍点]、そして愛する[#「そして愛する」に傍点]。
甘さと旨さとは違ふ[#「甘さと旨さとは違ふ」に白三角傍点]。
[#ここから2字下げ]
甘さを表現したゞけでは(旨さが籠つてゐないならば)それはよき芸術[#「よき芸術」に傍点]ではない。
よき芸術には人生のほんたうのうまさ[#「人生のほんたうのうまさ」に傍点]がなければならない。
[#ここで字下げ終わり]

 三月八日[#「三月八日」に二重傍線] 曇――晴。

身辺整理。
宇平さんから旅費を頂戴した、ありがたう、ありがたう。
さつそく街へ出かけて、買はなければならない物だけ買ふ、そして払へるだけ払ふ。
理髪する、そのまゝ湯田へ行く、半月振の入浴。
ほんたうにさつぱりした。
たうとうS屋に泊つて、のんびりと一夜を送つた。
[#ここから1字下げ]
おばあさんおたつしやですね、おいくつですか。
まあ[#「あ」に「マヽ」の注記]なばかりで――はいはい、七十二でございます、いえ、八十二で。……
[#ここで字下げ終わり]

 三月九日[#「三月九日」に二重傍線] 曇。

朝から飲む(悪い癖だがたうてい止まない!)、山口でゆくりなくNさんに逢ひ、いつしよにまた飲む、かうなるとどうにもならない私の性分で、今晩もまたS屋に泊めて貰つた、やれ/\、やれ/\。

 三月十日[#「三月十日」に二重傍線] 雨。

陸軍記念日、意義ふかい今日である。
朝のうち帰庵。
旅立の用意をする。
午後、暮羊君来庵、快飲快談。

 三月十一日[#「三月十一日」に二重傍線] 晴――曇。

今日は出立するつもりだつたが、天候もはつきりしないし、胃腸のぐあいもよくないので静養した。
旅、旅、旅、――私を救ふものは旅だ、旅の外にはない、旅をしてゐると、人間、詩、自然がよく解る。
さびしくもうれしい旅[#「さびしくもうれしい旅」に傍点]、かなしくも生きてゐる私[#「かなしくも生きてゐる私」に傍点]!
旅の仕度もすつかり出来た。――(旅へ)
[#ここから1字下げ]
太陽。
空と水。
米と味噌。
炭と油。
本と酒。
[#ここで字下げ終わり]

 三月十二日[#「三月十二日」に二重傍線]――四月三日[#「四月三日」に二重傍線] 旅日記



底本:「山頭火全集 第八巻」春陽堂書店
   1987(昭和62)年7月25日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。
入力:小林繁雄
校正:仙酔ゑびす
2009年10月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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