夕方、樹明君来庵、私の不機嫌が私のそばにゐられないほど彼を不快にしたらしい、すまなかつた。
夢! 春は夢が多い、何といふ汚ない卑しい夢であつたか。……
[#ここから2字下げ]
湯田温泉三句
・わいてあふれる湯のあつさ汗も涙も
・湯あがりぼんやり猿を見てゐる人々で
・お猿はのどか食べる物なんぼでもある(ナ)
・ぽつかり月が、逢ひにゆく
・うらゝかな硯を洗ふ
・芽ぶく曇りの、倒れさうな墓で
・草のうらゝかさよお地蔵さまに首がない(ナ)
・こんな山蔭にも田があつて鳴く蛙
・夕日いつぱいに椿のまんかい
[#ここで字下げ終わり]
四月十七日[#「四月十七日」に二重傍線] 曇、后晴。
小鳥はた[#「た」に「マヽ」の注記]えづる、よろこびそのものであるやうに。
午後山口へ、まず湯田で一浴、それから市中を歩きまはつて、労れた胃の腑へ熱燗でおでんを入れる。
暮れて帰庵、お茶漬を食べてから読書。
だん/\落ちついてくる、根本的に身心整理をする時機が来たのである。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
ぐうたら手記
□賭博本能と飲酒本能(競馬を見て)。
□気品とは、
句品、人格、境涯。
□孤独は死へいそぐ[#「孤独は死へいそぐ」に傍点]。……
[#ここで字下げ終わり]
四月十八日[#「四月十八日」に二重傍線] 晴。
うら/\として蝶がもつれる、虫がとびかふ、草がそよぐ、小鳥がさえづる、そして人間は。
私は散歩した、嘉川の南端までぶら/\歩きまはつた。
落ちつきすぎるほど落ちついた、山頭火が山頭火らしくなつてきた、山頭火は山頭火でなければならない、山頭火はほんたうの山頭火にならなければならない。
夢で鰒を貰つた! 春の夜のナンセンスとはいひきれないものがあるやうだ、私はその鰒を思ひ浮べては独り微苦笑を禁じえなかつた。
[#ここから2字下げ]
・身のまはりは草だらけみんな咲いてゐる(ナ)
・あれから一年生き伸びてゐる柿の芽(昨春回想)
・水へ水のながれいる音あたゝかし
・五月の風が刑務所の煉瓦塀に
・ずんぶりひたるあふれるなかへ
・わいて惜しげなくあふれてあつい湯
[#ここで字下げ終わり]
四月十九日[#「四月十九日」に二重傍線] 曇。
省みて恥ぢない心境[#「省みて恥ぢない心境」に傍点]、存らへて疚しくない生活[#「存らへて疚しくない生活」に傍点]。
或る人に――
[#ここから2字下げ]
酒は酒、水は水、それでよろしいのですが、私の場合では酒が水にならないとよろしくないやうです(養老の孝子の場合では、水が酒になりましたが!)。
[#ここで字下げ終わり]
四月二十日[#「四月二十日」に二重傍線] 晴、さてもうらゝかな。
今日も歩いた、陶から鋳銭司へ、そして秋穂まで、野も山も人も春たけなはだつた。
入浴、そして晩酌、とてもよかつた。
陰暦の三月十八日、裏山の観音堂は賑やかである、地下の人々が男も女も年寄も子供もみんないつしよに、御馳走をこしらへて食べるのである、いはゞ里のピクニツク、村の園遊会である。
かういふ風習はなつかしい、うれしいもよほしであるが、それも年々さびれて、都会並の個人享楽にうつつてゆく、なげいたところで時勢のながれはせきとめることもできない。
昨日も今日も一句も出来なかつた、出来さうとも思はなかつた、長らく悩んだ結果として、私の句境は打開されつゝあるのである。
四月二十一日[#「四月二十一日」に二重傍線] 晴、そとをあるけば初夏を感じる。
昨日は朝寝、今朝は早起、それもよし、あれもよし、私の境涯では「物みなよろし」でなければならないから(なか/\実際はさうでもないけれど)。
常に死を前に[#「常に死を前に」に傍点]――否、いつも死が前にゐる[#「いつも死が前にゐる」に傍点]! この一ヶ年の間に私はたしかに十年ほど老いた、それは必ずしも白髪が多くなり歯が抜けた事実ばかりではない。
しづかなるかな、あたゝかなるかな。
午後、歩いて山口へ行つた、帰途は湯田で一浴してバス、バスは嫌だが温泉はほんたうにうれしい、あふれこぼれる熱い湯にひたつてゐると、生きてゐるよろこび[#「生きてゐるよろこび」に傍点]を感じる。
晩酌一本、うまい/\、明日の米はないのに。
私はまさしく転換した、転換したといふよりも常態に復したといふべきであらう、正身心[#「正身心」に傍点]を持して不動の生活に入ることが出来たのである。
[#ここから2字下げ]
・ふるつくふうふうわたしはなぐさまない(ナ)
・ふるつくふうふうお月さんがのぼつた
・ふるつくふうふ[#「ふうふ」に傍点]とないてゐる
(ふるつくはその鳴声をあらはすふくろうの方言)
・照れば鳴いて曇れば鳴いて山羊がいつぴき
・てふてふもつれつつ草から空へ(ナ)
[#ここで字下げ終わり]
四月廿二日[#「四月廿二日」に二重傍線] 晴れたり曇つたり、また雨か。
けさも早起、しかも米がない。
大根と唐辛とを播く。
せめて今日一日を正しく楽しく生きたい[#「せめて今日一日を正しく楽しく生きたい」に傍点]。
米がなくては困るので、学校に樹明君を訪ねて、Sさんから句集代を貰うて貰ふ。
山口まで歩いた、途中、湯田競馬見物、一競馬見たら嫌になつた、そこには我慾が右徃左徃してゐるばかりだ、馬券がとぶばかりだ、馬を鑑賞する、いや、賭そのものを味ふこと[#「賭そのものを味ふこと」に傍点]すらないのだ、勝負事の卑しい醜い一面しかないのだ。
帰途、新町の馴染の酒店で味淋一杯のお接待を頂戴した、小母さんは眼が悪い、そして今日明日はお大師様の御命日である。
学校に寄つて、夕飯を御馳走になつた、そしてほどよく酔うてしやべつて、戻つて寝た。
[#ここから2字下げ]
湯田競馬
・くもりおもたく勝つたり敗けたりして
麦田ひろ/″\といなゝくは勝馬か
遊園地
・さくらちるあくびする親猿子猿
檻の猿なればいつも食べてゐる
・猿を見てゐる誰ものどかな表情
山口運動場
・椎の若葉もおもひでのボールをとばす
建築工事
雲雀がさえづる地つきうたものびやかに
声を力をあはせては大地をつく
・芽ぶくなかのみのむしぶらり
・ふたりのなかの苺が咲いた
・山の湯へ、初夏の風をまともにガソリンカーで
・しげる葉の、おちる葉の、まぶしいそよかぜ(ナ)
・若葉へわたしへ風がやさしくねむりをさそふ
・なにやらさみしく雀どものおしやべり
[#ここで字下げ終わり]
四月廿三日[#「四月廿三日」に二重傍線] もちなほして晴。
秋穂のお大師めぐりがしたいのだけれど銭が足りないので、また湯田温泉へ行つた。
もう初夏らしい風である、歩けばすこし暑いが、しづかにをれば申分のない季節である。
うれしいものは毎日うけとるたよりである、今朝は山形から珍らしいかき餅を貰つた、ありがたいことである。
ほどよい疲労とうまい晩酌と、そしてこゝろよい睡眠。
[#ここから2字下げ]
湯田競馬、追加一句
・勝つてまぶしく空へ呼吸してゐる
・誰も来てはくれないほほけたんぽぽ
・爆音はとほくかすんで飛行機
・ふるさとの学校のからたちの花
・ここに舫うておしめを干して初夏の風
・晴れて帆柱の小さな鯉のぼり
・暮れてなほ何かたたく音が、雨がちかい
・ひとりたがやせばうたふなり(ナ)
[#ここで字下げ終わり]
四月廿四日[#「四月廿四日」に二重傍線] 晴。
近在散歩。
澄太君に返事の手紙を書いた、緑平居訪問の同行を断つたのである、それはまことに一期一会[#「一期一会」に傍点]ともいふべきよろこび[#「よろこび」に傍点]であり、同時にかなしみ[#「かなしみ」に傍点]ではないか、君のあたゝかい心、そして私のかたくなな心、私は書いてゐるうちに涙ぐましくなつた。……
若楓のうつくしさ、きんぽうげのうつくしさ。
季節の焦燥、人間の憂欝、私の彷徨。
[#ここから2字下げ]
草青く寝ころぶによし
ここまでは会社のうちで金盞花
・あゝさつきさつきの風はふくけれど
・まがれば菜の花ひよいとバスに乗つて
・寝ころべば旅人らしくてきんぽうげ
[#ここで字下げ終わり]
四月二十五日[#「四月二十五日」に二重傍線] 晴、日本の春、南国の春。
緑平老に――
[#ここから2字下げ]
……澄太君といつしよにお訪ねすることが出来ないのを悲しみます、無理に出かければ出かけられないこともありませんけれど、それは決してあなた方を快くしないばかりでなく、必らず私を苦しめます、どうぞお許し下さい。
……何故、私は小鳥たちのやうにうたへないのか、蝶や蜂のやうにとべないのか、蟻のやうにうごけないのか、……私は今、自己革命に面してゐます、一関また一関、ぶちぬきぶちぬかなければならない時機に立つてゐます。
……自己克服、いひかへれば過去一年間の、あまりに安易な、放恣な、無慚な身心を立て直さなければなりません、……アルコールでさへ制御し得なかつた私ではなかつたか。……
[#ここで字下げ終わり]
松蝉がしきりに鳴きだした、あの声は春があはたゞしく夏へいそぐうただ。
半日、椹野川堤で読書、一文なしでは湯田へ行けないから。――
[#ここから2字下げ]
・うぐひすうぐひす和尚さん掃いてござる
・なんとよい日の苗代をつくること
・山はしづかなてふてふがまひるのかげして
・山かげふつとはためくは鯉幟
・岩に口づける水のうまさは
・若葉したゝる水音みつけた
[#ここで字下げ終わり]
四月二十六日[#「四月二十六日」に二重傍線] 曇。
身辺整理、むしろ心内整理。
門外不出、終日読書。
四月二十七日[#「四月二十七日」に二重傍線] 曇、少雨。
ずゐぶん早く起きたが、何もない!
火! よい火を焚け、そしてよい酒を飲め。
K氏を訪ねて、句集代を頂戴した、それでやつと米が買へた。……
かういふ生活には(私のやうな生活にはといはなければなるまいが)苦悩[#「苦悩」に傍点]と浪費[#「浪費」に傍点]とがたえない、苦悩はもとより甘受するが、浪費にはたへられない、浪費そのものよりも浪費する心[#「浪費する心」に傍点]が我慢しきれなくなる。
物質の浪費、身心の浪費、ああ。
夕方、久しぶりにT子さんが来て、しばらく話して帰つた、彼女はわがまゝな、そして不幸な女だ、我儘がなくなれば幸福になれるのだが、恐らくは駄目だらう。
何日ぶりかで、奴豆腐をたべた、淡々として何ともいへない味はひだ、水のやうに、飯のやうに。
鼠がやつてきてゐるらしい[#「鼠がやつてきてゐるらしい」に傍点]、さすがに春だと思ふ、彼もやがて去るだらう、庵主が時々餓ゑるぐらゐだから、鼠もやりきれなくなるだらう。
[#ここから2字下げ]
・若葉もりあがる空には鳩
・五月の風が、刑務所は閉めてぴつたり
・私一人となつた最終バスのゆれやう
・水へ石を投げては鮮人のこども一人
[#ここで字下げ終わり]
四月廿八日[#「四月廿八日」に二重傍線] 曇、時々降る。
朝からマイナスを催促された、マイナスといふものはほんたうによろしくない、プラスはなくてもいゝが(私にはプラスがあつたら、マイナスとおなじくよろしくない!)マイナスのない生活[#「マイナスのない生活」に傍点]でなければならない。
午後、樹明君来庵、散歩、乱酔。
[#ここから2字下げ]
名物男をうたふ
・でたらめをうたひつつあさぶをもらひつつ
・若葉に月が、をんなはまことにうつくしい
・いつ咲いた草の実の赤く
江畔老に
・その蕎麦をかけば浅間のけむりが
[#ここで字下げ終わり]
四月二十九日[#「四月二十九日」に二重傍線] 曇。
昨夜は安宿の厄介になつたほど酔つぱらつた、そして朝酒(この酒代はどこから出たのだらう!)。
[#ここから2字下げ]
・ふるつくふうふうどうにもならない私です
・ふるつくふうふうぢつとしてゐられない私です
・ふるつくふうふうあてなくあるく
・死ねないでゐるふるつくふうふう
[#ここで字下げ終わり]
四月三十日[#「
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