は思つたことである。
※[#二重四角、291−6]ありがたいことには、私は此頃また以前のやうに御飯をおいしく食べるやうになつた、逃げた幸福[#「逃げた幸福」に傍点]がかへつてきたのである、生きることは味ふことであるが[#「生きることは味ふことであるが」に傍点]、食べることは味ふことの切実なるものである[#「食べることは味ふことの切実なるものである」に傍点](殊に老境に於ては、食べることが生きることである)。
夜は盲目物語[#「盲目物語」に傍点]を読んで潤一郎芸術の渾然たるにうたれた、そして人の一生[#「人の一生」に傍点]といふものが痛感された。
[#ここから2字下げ]
・なむからたんのうお仏飯のゆげも
・ひとりぐらしも大根きりぼしすることも
おもむろに雑魚など焼いてまだ寒いゆふべは
窓ちかくきてた[#「た」に「マヽ」の注記]えづるや御飯にしよう
焼いては食べる雑魚もゆたかなゆふ御飯
・蕗のとうが、その句が出来てたよりを書く
蕗のとう、あれから一年たちました(緑平老に)
・空が山があたゝかないろの水をわたる
・住みなれて藪椿なんぼでも咲き
歩けなくなつた心臓の弱さをひなたに
蕗のとうのみどりもそへてひとりの食卓
・ほろにがさもふるさとでふきのとう
藁塚のかげからもやつと蕗のとう
[#ここで字下げ終わり]
二月二十二日[#「二月二十二日」に二重傍線] 雨、春時化とでもいはう、よいたよりでも来ないかな?
降る、降る、その雨を衝いて(ゴム靴はありがたいな、おもいな)街へ、――酒買ひに、でせう、――まつたく、その通り、一升借り出しました。
一杯機嫌で、うと/\してゐるところへ、敬坊来庵、久しぶりにF屋でうまい酒を飲む、それからまた例によつて二三ヶ所を泳ぎまはる、そしてI旅館に碇泊(沈没にあらず)、まことによいとろ/\[#「とろ/\」に傍点]であつた!(どろ/\[#「どろ/\」に傍点]にあらず)
[#ここから2字下げ]
・山から水が春の音たてて流れだしてきた
・雑草あるがまま芽ぶきはじめた
[#ここで字下げ終わり]
二月二十三日[#「二月二十三日」に二重傍線] 晴、まつたく春ですね。
公明正大なる朝帰り! 五臓六腑にしみわたる朝酒のほろ酔機嫌で!
雑魚を焼きつつ、造化のデリカシーにうたれ、同時に人間の残忍を考へないではゐられなかつた。
酒は酔を意識して、いや期待して飲んではいけない。
酔ふための酒[#「酔ふための酒」に傍点]はいけない、味ふ酒[#「味ふ酒」に傍点]でなければならない。
酔ひたい酒でなくて、味ふほどに酔ふ酒[#「味ふほどに酔ふ酒」に傍点]でなければならない。
酒のうまさ[#「酒のうまさ」に傍点]、水のうまさ[#「水のうまさ」に傍点]、それが人生のうまさ[#「人生のうまさ」に傍点]でもある。
しづかに炭をおこして(炭があるのはうれしいな)しづかに茶をすゝる、――人間として生きてゐる幸福[#「人間として生きてゐる幸福」に傍点]。
水、米、酒、豆腐、俳句――よくぞ日本に生れたる[#「よくぞ日本に生れたる」に傍点]! 日本人としてのよろこび。
地獄に遊ぶ[#「地獄に遊ぶ」に傍点]、かういふ生き方は尊い。
山口へ出張して、帰途また立寄るといつて別れた敬坊を待つたが、なか/\やつて来ない、樹明君から手紙がくる、宿直だからやつて来なさいといふ、夕方から出かける、例の如く飲む食べる、話す笑ふ、そして泊る、……今夜はみんな酔ひすぎて(五人共)あぶなく脱線するところだつた。
[#ここから3字下げ]
試作四句
その手が、をんなになつてゐる肉体
雪ふる処女の手がテーブルのうへに
咲いては落ちる椿の情熱をひらふ
雪あかりわれとわが死相をゑがく
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
ぐうたら手記
□飲みすぎ食べすぎもよくないが、饒舌りすぎはもつとよくない。
□本を読むは物を食べるに似たり。
□心の欲するところに従うてその矩を踰えず――生活の極致。
過ぎたるは及ばざるに如かず――処世の妙諦。
人事を尽して天命を俟つ――人間の真髄。
[#ここで字下げ終わり]
二月二十四日[#「二月二十四日」に二重傍線] 晴、うらゝか。
朝飯をよばれてから朝がへり。
敬坊はやつぱり来てゐない、また脱線かな、何しろ春がきたから、まだ若いから。……
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
ぐうたら手記
□アテにしないで待つ[#「アテにしないで待つ」に傍点]――これが私の生活信条とでもいふべきもの(友に与へる文句である)。
来者不拒[#「来者不拒」に傍点]、去者不追[#「去者不追」に傍点]といつてもよからう。
□俳句することが[#「俳句することが」に傍点]、私に於ては[#「私に於ては」に傍点]、生活することだ[#「生活することだ」に傍点]。
俳句する心が、私の生きてゐる泉である。
□遊ぶ[#「遊ぶ」に傍点]――道に遊ぶ、芸に遊ぶ、句に遊ぶ、酒に遊ぶ、――童心にして老心。
□鼠、歯、餅、飯、水、酒、虫、花。
鼠もゐない家、歯のない人間、餅と日本人。
[#ここで字下げ終わり]
二月二十五日[#「二月二十五日」に二重傍線] 晴。
……みだれてしまつた、自己統制をなくしてしまつた、あてもなく歩いた。……
二月廿六日[#「二月廿六日」に二重傍線] 雨。
身心疲労たへがたし。
二月二十七日[#「二月二十七日」に二重傍線] 曇、晴。
終日終夜、悶え通した。
二月二十八日[#「二月二十八日」に二重傍線] 晴れたり曇つたり。
ぢつとしてゐるにたへなくて、街に出て宿屋に泊つた、そしてやつと安静をえた、近在散歩。
三月一日[#「三月一日」に二重傍線] 春日和、もう虫が出て飛ぶ。
散歩、歩いてゐると何となく慰められる。
[#ここから2字下げ]
・大石小石ごろ/\として春
夜露もしつとり春であります
・春夜は汽車の遠ざかる音も
・もう郵便がくるころの陽が芽ぶく木々
・風がほどよく春めいた藪から藪へ
・春風のローラーがいつたりきたり
・伐り残されて芽ぶく木でたゝへた水へ
[#ここで字下げ終わり]
三月二日[#「三月二日」に二重傍線] 晴。
今夜は呂竹居に泊めて貰つた、なごやかな家庭の空気がいら/\してゐる私をやはらかくつつむ、ありがたい、まことにありがたい。
三月三日[#「三月三日」に二重傍線] 四日 五日 六日
寝てゐた、寝てゐるより外に仕方がない。
三月七日[#「三月七日」に二重傍線] 晴。
やつと起きあがつて、句集発送。
夜半の闖入者としてK君、I君襲来。
三月八日[#「三月八日」に二重傍線]
春が来たことをしみ/″\感じる。
身辺整理。
机を南縁から北窓へうつす、これも気分転換の一法である。
在るがままに在らしめ[#「在るがままに在らしめ」に傍点]、成るがままに成らしめる[#「成るがままに成らしめる」に傍点]、それが私の心境でなければならない。
[#ここから2字下げ]
・山火事も春らしいけむりひろがる
・ぬくうてあるけば椿ぽたぽた
・草へ草が、いつとなく春になつて
[#ここで字下げ終わり]
三月九日[#「三月九日」に二重傍線] 春寒。
身心平安。
山口の句会へ行く、椹野川づたひに歩いて行つた、春景色、そして私は沈欝であつた、いつ訪ねても周二居はしづかであたゝかである、湯田温泉も私のかたくなにむすぼれた身心をほぐしてくれた、おいしい夕飯をいたゞいて、若い人々と話して、終列車で戻つた、まことによい一日一夜であつた。
三月十日[#「三月十日」に二重傍線] 日露戦役三十年記念日。
すつかり春、しゆう/\として風が吹く。
奴豆腐で一本、豆腐はうまい、いつたべてもうまい、酒は時としてにがいけれど。
蛙が鳴いた、初声である、蝶々も出てきてひら/\。
こころたのしい日である。
[#ここから3字下げ]
日の丸が大きくゆれる春寒い風
(試作)或る友に代りて
触れてつめたい手に手をかさね
[#ここで字下げ終わり]
三月十一日[#「三月十一日」に二重傍線] 晴、雨、風、そしてまた晴。
初雷、春をうたふ空のしらべだ、春雷。
旅をおもふ、旅仕度して旅情を味ふ。
樹明来庵、とろ/\、それから、どろ/\!
[#ここから2字下げ]
・ゆらげば枝もふくらんできたやうな
・春はいちはやく咲きだしてうすむらさき
トラツクのがたびしも春けしきめいて
[#ここで字下げ終わり]
三月十二日[#「三月十二日」に二重傍線]
正々堂々として朝がへり。
トンビを曲げて酔ふ、身心洞然としてさえぎるものなし。
[#ここから2字下げ]
・風の枯葦のおちつかうともしない
晴れて風ふく草に火をはなつ
つつましく住めば小鳥のきてあそぶ
[#ここで字下げ終わり]
三月十三日[#「三月十三日」に二重傍線] 晴。
もう油虫めが出てきやがつた。
澄太君から来信、その友情は私を感泣さした。
[#ここから2字下げ]
・山から水が流れてきて春の音
・住みなれて家をめぐりてなづな咲く
[#ここで字下げ終わり]
三月十四日[#「三月十四日」に二重傍線] 晴、霜、氷。
樹明君と関門日々新聞記者波多野君と同行して来庵、飲んで、出かけてまた飲んだ、そして酔うて、嫌な事件があつた。
三月十五日[#「三月十五日」に二重傍線]
うれしい藪鶯が鳴く。
後藤さんが帰郷の途次を寄つてくれた、澄太君の奥さんの心づくし――饅頭を持つて。
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・みんないつしよに湧いてあふれる湯のあつさ(千人湯)
・風も春めいて刑務所の壁の高さ
[#ここで字下げ終わり]
十六日 十七日 十八日
かなしい、うれしい日であつたとだけ。
三月十九日[#「三月十九日」に二重傍線] 曇。
急に思ひ立つて佐野の妹を訪ねる、お土産は樹明君から貰つたハム、いつものやうに酔つぱらつておしやべり、寿さんが黙々として労働してゐることは尊い、省みて恥ぢないではゐられなかつた。
外出着の質受ができないので、古被布を着て行つたので、さんざ叱られた、叱る彼女も辛からうが、叱られる私も辛かつた、……肉縁のよさ、そして肉縁のわずらはしさ!
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をとこがをなごが水がせゝらぐ灯かげ(雑)
[#ここで字下げ終わり]
三月二十日[#「三月二十日」に二重傍線]
夜の明けきらないうちに起きて散歩、佐波川はおもひでのしづけさをたたへて鶯も啼いてゐる。
イチと名づけられた犬が可愛い、ほんたうに可愛い。
花と梅干とを貰うて帰庵。
F家の白木蓮がうつくしい、それにもおもひでがある。
三月二十一日[#「三月二十一日」に二重傍線] 曇、なか/\寒い、雨。
お彼岸の中日。
アテにしないで待ちかまへてゐた徳山の連中は来てくれなかつた、……寝るより外なかつた。
[#ここから3字下げ]
白船君に
だまされてゆふべとなれば木魚をたたく
改作追加一句
子がうたへば母もうたへばさくらちる
[#ここで字下げ終わり]
三月二十二日[#「三月二十二日」に二重傍線] 晴。
生死を生死せよ[#「生死を生死せよ」に傍点]。
三月二十三日[#「三月二十三日」に二重傍線] 雪でもふりだしさうな曇りだつたが、午後はぬくい雨となつた。
たよりいろ/\、ありがたし、かたじけなし。
街へ出かけて、払ふべきものを払へるだけ払ふ、Tさんの如きは、払つて貰ふことは予期してゐなかつたといつて私よりも彼女が恐縮した!
雑魚で一杯、ほろ/\酔うて、ぶら/\歩きたい気分をおさへて寝た。……
雑木雑草[#「雑木雑草」に傍点]、その幸福にひたつた。
[#ここから2字下げ]
・ふるさとはおもひではこぼれ菜の花も
なんと長い汽車が麦田のなかを
・ぼけが咲いてふるさとのかたすみに
・けふはこれだけ拓いたといふ山肌のうるほひ
・水に雲が明けてくる鉄橋のかげ
妹の家を訪ねて二句
・門をはいれば匂ふはその沈丁花
しきりに尾をふる犬がゐてふ
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