十七日」に二重傍線]

サイレンが鳴る、お寺の鐘が鳴る、そしてしめやかな雨の音。
めづらしい訪問者――猫がやつてきて、鰯のあたまを食べて行つた。
歯がうづいて頭痛がする、暮れないうちから寝た、寝た、寝た、十二時間以上寝た。
歯――抜ける前の痛みだ、去年は旅で上歯が三枚ぬけた、今年はもうすぐ下歯が二枚ぬけるだらう。
噛みしめなければ、食物の味は出て来ない、それにしても酒が固形体でないことは、何といふ仕合だらう!
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・人も枯草も濡れてたそがれ
・かあと鴉が雨ふる山へ遠く
・茶の木もうゑかへたりして日照雨
・晴れてはあたゝかく銃声をりをり
・うづく歯を持ちつゝましう寝る
[#ここで字下げ終わり]

 二月十八日[#「二月十八日」に二重傍線]

曇、寒、小雪、閉ぢ籠つてゐるにはよい日である。
三八九原稿整理。
午後、街へ出かける、三日ぶりである、入浴、木炭を持つて戻る。
樹明来、お茶とビスケツト。
かうして、つゝましくしてゐることも悪くない。
明日は、樹明君が朝から、そして敬坊も来庵の予約。
不快な――それは私自身の不安心を暴露する以外の何物でもなかつた夢に襲はれた、そして頻りに囈語を吐いた(自覚してゐて寝言をいふのだから助からない)、修行未熟、精進せよ。
このあたりに、いかに多くの鶏が飼はれてゐるか、そしてその鶏がいかに屡々鳴くかを今更のやうに知つた。
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・山から下りてゆく街へ虹立つた
 暮れて寒い百舌鳥がまだないてゐる
[#ここで字下げ終わり]
彼の過去帳[#「過去帳」に傍点]を繰りひろげて見る。――
[#ここから2字下げ]
最初の不幸[#「不幸」に傍点]は母の自殺。
第二の不幸は酒癖。
第四の不幸は結婚、そして父となつた事。
第五の不幸……
[#ここで字下げ終わり]
同時に、彼の最初の、そして最の[#「最の」に「マヽ」の注記]幸福[#「幸福」に傍点]は?

 二月十九日[#「二月十九日」に二重傍線]

今朝は早かつた、早過ぎた、四時頃でもあつたらうか、一切事をすまして、ゆつくり読書しても、まだサイレンは鳴らなかつた、しかし、早起はよい、朝の読書もよい、頭脳が澄みきつて、考へる事がはつきりする、あまり句は出来ないけれど、自己省察、といふよりも自己観照[#「自己観照」に傍点]――それが一切の芸術の母胎――が隅から隅まで行き届く、自分といふものが、そこらの一草一石のやうに、何のこだはりもなく露堂々と観照される。……
今朝の片破月はうつくしかつた、星もうつくしかつた、空のすべてがうつくしかつた、そよとの風もない、そして冷たさのしん/\と迫つてくる天地はうつくしいものであつた、かういふ境地、かういふ境地から湧いてくる情趣は俳句的であると思つた。
△朝早くから、いろ/\の小鳥がやつてくる、――モズ、ヒヨ、メジロ、シヂユウガラ、ミソサヾイ――スヾメも時々くればよいのに。
めづらしい大霜だつた、何もかも霜をかぶつてゐた、霜といふものはずゐぶんうつくしいものだと感じ入つた。
待ち設けた敬治君がきた、一杯やつてゐるところへ、樹明君がおくれたのであはてゝやつてきた、これで揃つた、酒、酒、酒、そして鰯、竹輪、うどん、汁、飯、等々等。
ほんとうによい酒だつた、うれしい酒だつた、おだやかな、をはりを全うした酒だつた、近来稀な、私たちの酒だつた。
よく寝た、ありがたい、ありがたい。
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・大霜、釜をみがく
・枯枝、するどい霜の
・霜の水仙うごかず
・落葉うづたかし霜しろく
・わらや霜どけしづくするゆたかな音
・さわがしく竹をきつてゐる霜どけ
 麦の芽、麦の芽と親子でうつ
・雪もよひ、莚織つてゐる子だくさん
   長州料理
 これがちしやもみ[#「ちしやもみ」に傍点]といふふるさとにゐて
・冬山から音させておりる一人二人
 藪のしづかさが陽をのんでしまつた
[#ここで字下げ終わり]

 二月二十日[#「二月二十日」に二重傍線]

けふもよい日だ、寒いことは寒いけれど。
桂子さんからうれしい手紙が来た、桂子女菩薩、女人に反感を持つてゐるのは誰だい。
買物をする、第一は酒、第二は魚、諸払をする、酒屋、魚屋、そして湯屋。
夕、樹明君を招待する、酔うて出かけた、そしてワヤ、いけなかつた、ゴロにぶつつかつた、君を送つていつて、とう/\泊つた(樹明君、もう歩きまはることは止めませう)。
桑原、々々、敬遠、々々。
[#ここから3字下げ]
けさをひらいた水仙二りん
馬が尿する日向の藪椿
[#ここで字下げ終わり]

 二月廿一日[#「二月廿一日」に二重傍線]

樹明居で朝飯をよばれる、産後の奥さんにすまないと思ふ。
何とうらゝかなお天気だらう。
桂子さんから小包到来、御厚情のかず/\ほんとうにありがたく頂戴いたしました。
大山さんから稿料落手、それだけ飲んでしまふ。
樹明君違約して不参、それが却つてよかつた。
焼酎よ、お前と永劫に縁をきる。
文字通り無一文。
△人間を離れて人間はゐない、彼、彼女、等々。
[#ここから2字下げ]
 さんざ労れて春めいた雨となつた
・水のいろも春めいたいもりいつぴき
 霜、水仙は折れて咲いてゐる
[#ここで字下げ終わり]

 二月廿二日[#「二月廿二日」に二重傍線]

予期した雨となつた、そして晴れた。
酒があるから酒を飲んだ、私はまだひとりの酒[#「ひとりの酒」に傍点]はほんとうに飲めない、酒は親しい人々といつしよに飲みたい。
樹明君がハムを持つてきてくれた、春らしい情景である。

 二月廿三日[#「二月廿三日」に二重傍線]

春、春、春がきました。
二三日なまけた、けふからしつかりはたらかう。
三八九の原稿を書きつゞける。
句もないほど、平穏な日だつた。
酒はないけれど、米があり野菜がある、水仙がほのかに匂ふ。
[#ここから2字下げ]
・こゝにふきのとうひらいてゐる
・あるけばふきのとう(追加)
・やつとふきのとう
・藪椿、号外のベルがやつてくる
・春がきた山から大きな木をはこぶ
[#ここで字下げ終わり]

 二月廿四日[#「二月廿四日」に二重傍線]

また雨だが、ぬくい雨だ、すつかり春めいた雨だ、油虫がどこからかのこ/\はいだしてきたほどだつた、午後は風がでゝ、だん/\晴れてきた。
三八九の仕事、ハムはうまいな、文旦飴もうまいな。

 二月廿五日[#「二月廿五日」に二重傍線]

未明、樹明来、宇部へ出張して、飲み過ぎて、三田尻まで乗り越して、やうやくこゝまで来たといふ、いかにも樹明らしい、ふたりいつしよにしばらく寝る。
明けてから、お茶を飲んで、さよなら、それから私は飯だが、もうシヨウユもスミもタバコもコメもなくなつた、まだハムとアメとが残つてゐる!
村のデパートで、サケ一杯とタバコ一袋とを借りた。
国際聯盟決裂の日、日本よ強くなれ、アジアは先づアジア人のアジアでなければならない。
三八九、三八九、三八九はメシのタネだ、ああああ、ああ。
樹明君が夕方再び来庵、豚のお土産を持つて、――一杯あげたいとは思へども。――
夜は三八九原稿を書く、あひまあひまに読みちらす。
今日は自然の事実を一つ発見した、水仙も向日葵のやうに太陽に向いて咲くといふことである、花はたいがいさうだけれど。
ハムばかり食べてゐる、まるで豚の春[#「豚の春」に傍点]だ。
舌皷を食べた(これは山口名物、これも樹明君のお裾分)。
[#ここから2字下げ]
・暮れきらないほの白いのは水仙の花
・陽がさせば水仙はほつかりひらき
・とろ/\とける『舌皷』の春ですね
・水のいろも春めいたいもりいつぴき(再録)
・水仙こちらむいてみんなひらいた
・あたゝかく虫がきて夜の障子をたゝく
 すつかり春らしく家々のけむり
・地べた日向をころげて落葉
・焚火あたゝかく風さわぐ
[#ここで字下げ終わり]

 二月廿六日[#「二月廿六日」に二重傍線]

寒い雪がちらほらしたが、どうやら晴れさうだ。
昨日も今日もよい手紙が来ない、軽い失望。
ハム、飴――なか/\の御馳走だ。
樹明君がめづらしく山ゆき姿で来た、ルンペンのやうでもあり、ギヤングのやうでもあるが、樹明はやつぱり樹明だ。
けふも暮れたか[#「けふも暮れたか」に傍点]、の嘆。

 二月廿七日[#「二月廿七日」に二重傍線]

寒い、寒い、こんな日はとても出かけられない、出かけたくないのを無理に出かけるよりも、ぢつとしてゐる方がよい、たとへ食べる物がなくて、お茶ばかり飲んでゐても。
昨日の夕餉はハムと文旦飴だつたが、今日の朝飯はハムと大根、ブルだかプロだか解らない食事だ。
午後は晴れて春日和になつた、思ひ立つて防府行、汽車賃を冬村君から借りて。
浴永君といつしよに三田君を訪ねる、たいへん歓待された、酒も飲んだし、金も貰つたし、お土産まで頂戴した。
終列車で帰庵、Hおばさんから飯を借りた。
今日の浪費壱円也(現在の私には)。
[#ここから2字下げ]
・みんな山ゆきすがたの雪が来さうな
・汽車も春風のふるさとのなか
・ゴボウマキ、ふるさとのうまさかみしめる(この一句を浴永君に)
[#ここで字下げ終わり]

 二月廿八日[#「二月廿八日」に二重傍線]

晴、春景色、朝酒、万事豊富、炭、酒、米、煙草。
樹明来、大に飲み大に語つて、往生安楽国!
[#ここから2字下げ]
・ほつかりと宵月のある枯枝で
・風がでて葉が鳴るゆふべの祈り
・春風の豚でうめく
・日向の椿がぽとりと水へ
・春がきたどろ/\の蓮を掘つてゐる
・草の芽乞食が荷をおろした
[#ここで字下げ終わり]

 三月一日[#「三月一日」に二重傍線]

くもつてはゐるがぬくい、さすがにもう春らしい。
三八九印刷。
また無一文、銭がほしいな。
村のデパートで一杯また一杯、とうぜんとしてもどる。

 三月二日[#「三月二日」に二重傍線]

晴、春、三八九。
入浴、春風しゆう/\だつた、馴染の酒屋で一杯、むろんカケで。
人影がさしたと思つたら、乞食だつた、彼もまた珍客たるを失はない、それほどわが庵は閑静である。
夜、樹明来、茶をすゝつて漫談しばらく。
しづかに更けて、やすらかなねむり。
[#ここから2字下げ]
・人影うらゝかな、乞食だつたか
 犬がほえる藪椿のつそりと乞食で
 痛さこらへてゐて春めいた一日
・椿ひらいて墓がある
・これだけ拓いてそらまめの芽
[#ここで字下げ終わり]

 三月三日[#「三月三日」に二重傍線]

さむい、くもり、冬らしく、そして晴、あたゝかく春らしく。
けふは新暦では桃の節句だが、私には何のかゝはりもない。
朝早くからみそつちよ[#「みそつちよ」に傍点]がきてなく。
うら/\と野山がかすんでゐる、春の横顔うつくしいね。
私の庵には鼠さへゐないのだ、めづらしいだらう(井師の雑文、鼠を読んで)。
新聞配達さんがアカツキを一本くれた、貧者の一本[#「貧者の一本」に傍点]!
号外がきて驚かした、東北地方に地震、海嘯、火災があつたといふ、願はくは被害少かれと祈る。
やうやく三八九の仕事がすむ、切手代がないので発送することが出来ない、あはれ/\。
火を焚く、さみしくない、――かういふ句はもう作らない、たゞ感想の一片としてこゝに書きつけておかう。
いつもきこえるステーシヨンの雑音、しづかだ、――これもおなじく。
△金銭に乏しうして苦しんだのでは、ほんとうの意味で救はれない、物そのもの――たとへば米なら米――に乏しうして苦しんで、初めて、物そのものゝありがたさ[#「物そのものゝありがたさ」に傍点]が解り、したがつて生そのもののよろこび[#「生そのもののよろこび」に傍点]を味ふことが出来る。
△貧乏といふことがほんとうに解らなければほんとうに救はれない。
樹明不来、待ちぼけ。
[#ここから2字下げ]
・生垣も椿ばかりでとしよりふうふ
・号外のベルが鳴る落椿
・そこに鳥がゐる黙つてあるく鳥
 草の実つけて食べ足つてゐる
 鳥かげのまつすぐに麦の芽
・ようほえる犬であたゝかい日で
・おきるより火吹竹をふく
・寒い火吹竹の穴ふとうす
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