ものかと信じこんでしまつた。あきらめるというほど深入りしていたわけではなかつたし、相手が自分をきらつていると思うと、やがて初世という存在は、佐太郎にとつて何等の重大な意味をもたなくなつた。
 翌る年の夏、地元の部隊に入隊してやがて出征するときには、もう初世のことなど佐太郎は思い出してもみなかつた。いや、それは正確ではない。思い出しはしても、自分の将来の運命に何等の関係があるものとしては考えなかつたと、言つた方がいい。それはただ、以前に自分の教え子の一人であつた隣村の赤の他人の娘に過ぎなかつた。

       三

 黄色い煙がたなびいたように青空いつぱいに若葉をひろげた欅《けやき》の木かげの家は、ヒツソリとして人気がなかつた。
 ちようどまもなく田植がはじまるという猫の手も借りたいいそがしいときで、どこの家でも、家族一同田圃に出払つていた。わけても佐太郎の家は、佐太郎の弟妹がみんな小学校に行つているので留守番もないはずだつた。
 昨夜雨があつたのか、シツトリと湿つている家の前庭を、三毛猫が音もなく横切つて行つた。
 復員兵の多くは佐世保近くの上陸地から自家に電報を打つたが、佐太郎は神
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