つかはさういふ時が来る。この旅を半《なかば》以上終へた時には必ず来る……)こんなことをBは自分で自分に囁いたりなどした。
暁は来た。もはや船は太沽《タークー》の沖に来てゐた。Bのすぐ前では、早くもやつて来た水先案内を相手に船長が双眼鏡を眼に当てゝ頻りにあたりを眺めてゐた。やがて[#「やがて」は底本では「やかて」]むづかしい白河《はくが》の遡航《さくかう》が始つた。船の両側にすさまじい濁流が巴渦を巻き出した。風車《かざぐるま》が見え出した。オランダを思はせるやうな赤煉瓦の古風の建物などもあらはれ出した。次第に河の両岸に桃の咲いてゐるのが、その桃の花も盛りを過ぎて僅かにその面影だけを残してゐるのが、それと微かに指さゝれ出して来た。川は何遍となく屈曲して、同じ建物が右に見えたり左に見えたりした。こんな濁つた赤ちやけた水の中にもあの美しい白魚が生息して居て、それを獲るための小舟が、すさまじい急流に逆らひつゝ頻りに網を引いてゐるなども見え出して来た。Bは甲板に立つてじつと眺めた。しかもかれはあらゆるものにかの女を感じた。岸の芦荻《ろてき》に、その根元にたぷたぷと打寄せて来てゐる濁流に、遠い空に捺されたやうにあらはれて見えてゐる風車に、微かに岸に残つてゐる桃の花に、更に揃つて下りて来るジヤンクの暗い佗《わび》しい帆に、そこらに集つてあたりを眺めてゐる船客の群に――。
天津の埠頭に近く、もとの船室に戻つて来たBは、そこにそのKと徳子とが親しさうに頻りに立話してゐるのを不思議にした。
暫くしてBの傍《かたはら》にやつて来たKは、いくらか弁解するやうに、
「向うに着いても、誰も迎へには来てゐないだらうつていふんです。為方がありませんから、私が伴れて行つてやることにしました」
「それは大変ですね?」
Bは微笑みながら言つた。
「何でも無理に出て来たんださうです……。矢張、いろんなことがあるらしいんですな。ひとりきりで、案内がわからなくつて困つて了ふつて言つてゐるもんですから」
「それで行くところはわかつてゐるんですか?」
「え、それはわかつてゐるんですがね。苦力《くり》の車にひとりで乗せてやるわけには行かないのです。何うもしやうがありませんよ」
「まア、然し、そのくらゐの義務は負つても好いでせう。同じ船に乗つた好《よし》みだけでも……」
「さうですかなア」
Kは頭を掻きながら笑つた。
「フランス人なんかその点に行くと親切なもんださうですよ。美しい女のことなら何んな世話でもしてやるさうですから――。日本人だつて何方《どちら》かと言へば、女に親切な方ですからな」言ひかけてBも笑つて、「それで遠いんですか?」
「行くところですか。それはそんなに遠くもありませんがね? ……兎に角、誰か迎へに来てゐて呉れる方が好いですな」
埠頭まではもはやそこからいくらもなかつた。汽船の速力も次第に緩く、岸には赤煉瓦の建物や倉庫らしいものも見え出して来て、縫ふやうに縁《へり》に並んで生えてゐる楊柳《やうりう》の緑についさつきから吹き出した蒙古風《もうこかぜ》がすさまじく黄《きいろ》い埃塵《ほこり》を吹きつけてゐるのを眼にした。船や、ヂヤンクや、小蒸汽や――たうとうB達の船はその埠頭に横附けにされた。
そこには自動車や、車や、荷車や、迎へに出てゐる人達があたり一杯に混雑《ごた/″\》と巴渦を巻いてゐて、踏板を此方《こつち》から渡すと同時に、三等の方の人達は大きな包を抱へて先を争つて急いで出て行くのであつた。舷側に添つたところには、H夫妻も徳子も皆な鞄や手提を持つて出てゐた。
H氏はBに言つた。
「今日は天津にお泊りですか?」
「一|夜《や》泊つて行かうと思ひます。貴方《あなた》は?」
「何うしようかと思つてゐます……。都合に由《よ》つて北京に行きたいと思つてをりますけれども――」
しかもそはそはしたB達はそれ以上言葉を交す暇《いとま》を持つてゐなかつた。その行くべき方《はう》へと各自に行かなければならなかつた。Bは船長や船員達の世話になつて、其処《そこ》に迎へに来てゐるTホテルの自動車へと乗ることにした。で、少し此方《こつち》に来てそれとなしに振返つて見た時には、Kが徳子を介抱して頻りに苦力の車に乗せてゐるのを眼にした。
やがてBはすさまじい蒙古風が屋根に当り四辻に吼え※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ランダに渦《うづま》くのを見た。街路樹の楊柳が枝も幹も地につくまでにたわわに振り動かされてゐるのを見た。黄い埃塵が北国《ほくこく》の冬の吹雪のやうに堅く閉《とざ》したホテルの硝子窓の内までザラザラと吹き込んで来るのを見た。次第に空も晦《くら》く、日の光もおぼろに、ホテルの廊下などでは、電灯のスヰツチをひねらなければならないほどそれほどあたりが暗くなつ
前へ
次へ
全5ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 録弥 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング