田山録弥

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)傍《そば》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|夜《や》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いろ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

「馬鹿に鳴くね。大きな犬らしいね」Bを見送りに来たMが言ふと、すぐ傍《そば》の籐椅子に腰をかけてゐたT氏は、
「H領事の犬だらう? 先生方も今日立つ筈だからね」
 その犬の悲鳴する声は、甲板の下のハツチのあたりから絶えずきこえて来た。小さな箱の中に入れられて、鉄の棒の間から鼻を出したり口を出したりして、頻りに心細がつて鳴いてゐるのであつた。
「Hさん、何処に行くんですか?」
 Mが訊いた。
「赤峰《せきはう》にやられてね」
「赤峰――それは大変ですね? それで奥さんも一緒ですか?」
「さうだよ」
「それは大変だ――」
「でもな、あゝいふ人達はさういふところから階段を経なくてはならないからね? まア一二年仕方がないさ――」
「それでも奥さんがえらいですな。まだ若いのに、赤峰つていへば北京《ぺきん》から十日もかゝるつていふぢやありませんか?」
「でもな、細君でも一緒につれて行かなければ、一月だつてあんなところにゐられやせんからね」
「それはさうですな。それにあの奥さん子供はないし、美しいし、置いて行くわけにも行かないでせうからな」
 Bは黙つて聞いてゐたが、しかもさうした会話の中《うち》に若い美しい細君を発見せずにはゐられなかつた。Bは一種ロマンチツクな情緒を感じた。
 Bは海を眺め、煙突から湧き上る煙を見、遠く港外に漂つてゐるジヤンクの帆を見廻したりなどしてゐたが、しかも間もなく桟橋から船へとのぼつて来るその夫妻の姿を見落しはしなかつた。それに、今日の船旅では、尠《すくな》くともその人達が一番多く見送人を集めてゐたので、その周囲にはいろいろな色彩が巴渦《うづ》を巻いて、裾模様がチラチラしたり、ダイアの指環がかゞやいたり、派手な水色のパラソルに日影が照つたり、出帆の時刻が近づいて行くにつれて、談話が囁きに、囁きが歔欷《きよき》に、次第に別離の光景をそのあたりに描き出すやうになつて行つた。
 若い細君は軽快な洋装に水色ボンネツトをつけて、宝石の首飾をあたりに見せてゐたが、ふと此方《こつち》を振向いた顔には、美しい眉と整正《せいせい》な輪廓と大きい黒い眼とがかゞやいた。やがてT氏の紹介でBはH夫妻と挨拶を取り交はしたりなどした。
 T氏もMも、H夫妻を見送りに来た人達も皆な桟橋の方へと下りて行つた。やがて汽船は出帆した。岸でも船でも長い間互ひに手巾《ハンケチ》を振つてゐたが、それもいつか遠く小さくなつて行つた。

 Bの船室から右舷の方へと出て行くところに、ひとり立つてじつと海を眺めてゐる若い美しい女――それは一目で狭斜《けふしや》の人であるといふことがわかつたが、さつきBが夫妻を見た時には、その女が送つて来てゐる待合のお上《かみ》らしい年増とさびしさうにして何かこそこそ話してゐるのが眼に着いたが、(天津《てんしん》にでも鞍替するのかな)と思つたが、今またその白い頬とさびしい眼とがわるくBの体に迫つて来るのを感じた。Bはその傍《かたはら》をそつと掠めるやうにして向うの方へと行つた。
 Bにはさういふ人達のことが何も彼もはつきりとわかるやうな気がした。つかんでもつかんでもつるりと抜けて行つて了ふやうな男の心、浮気な男の心、それは女の方でも破れた草鞋《わらぢ》でも捨てるやうに惜しげもなしに捨てゝ捨てゝ来てはゐるけれども、しかも何うかして、その男の心を一つはつかまずにはゐられないために、さうした女達はかうして遠く海を渡つて行くのではないか。不知案内《ふちあんない》のさびしい海をもひとりさびしくわたつて行くのではないか。(それから思ふと、何んなに遠いところでも、どんなに不知案内の砂漠の中でも、ひとつの男の心をしつかりとつかんで、それに縋つて、何処までも何処までも行かうとするH夫人の方が何れだけ幸福だらうか。同じさびしさにしても何れだけ力強いさびしさであらうか――)Bはじつと夕暮近い海を眺めた。

 幸ひに航路は穏かで、心配した濃霧もかゝらずに茫《ばう》と静かに海は暮れて行つたけれども、しかもさびしさは遂に遂にBを離れなかつた。Bは波濤の舷側に当る音を耳にしながら、長く寝床《ベツト》の上に身を横《よこた》へた。
 そのすぐ向うには、社用で天津に行かうとしてゐるまだ若い三十二三になつたかな
次へ
全5ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 録弥 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング