て行くのを見た。蒸暑くても窓を明けることは出来ず、その硝子窓の外に並べて置かれてある大きな鉢植ゑの万年青《おもと》の葉が埃塵で真白になつてゐるのを見た。
何処でもBはひとりではなかつた。かの女は片時もBから離れてはゐなかつた。Bは到るところにかの女を置いた。それにしても此処にやつて来てこれを見たら何う思ふだらう? この蒙古風に逢つたら何と言つたらう? あの眉を蹙めるだらう。埃塵に白くなるあの髪を佗しがるだらう。肌の中までザラザラするのを気持わるがるだらう。しかしそれをも我慢するだらう。何故《なぜ》といふのに、それは旅だから。かの女もこの身も倶《とも》に好きな旅だから――。
天津で友達に招かれた料理屋は大きな室《へや》の中に小さな室が幾つも幾つもあるやうな家《うち》であつた。そこでBはBの前に坐つた年増の妓《こ》に、「矢張、女だつて同じことですよ。一つづゝ心をつかんでゐなければ安心して生きてゐられないのですよ。だから矢張|終《つひ》にはそこに落ちて行くのですな――」などと言つた。
あくる日もそのすさまじい蒙古風は止まなかつた。Bは少しばかりあつた用事をすまして、午後の三時の汽車で北京へと行つたが、生憎《あひにく》その日は日本人はひとりも乗つてゐず、それに例の臨城《りんじやう》事件が昨夜《ゆうべ》あつたばかりなので、一層さびしいさびしい旅を続けなければならなかつた。Bは唯黙つて荒漠とした野《の》を見た。行つても行つても村落らしい村落はなく、暗い鼠色の空にすさまじく埃塵の漲《みなぎ》りわたつてゐる広い広い地平線を見た。停車場《ていしやぢやう》と言つても、ほんの小さな建物があるばかりで、町らしい形を成してゐる部落などは何処まで行つても眼に入つては来なかつた。をりをり唯遠くの楊柳の枝のたわわに風に吹かれてゐるのが見えるばかりであつた。
(こんなところに一国の首都たる北京があるのかしら? 不思議な気がするなア)かう何遍もBは腹の中で思つた。やがて薄暮に近く、次第にその北京はあらはれ出して来た。暗い城壁を取廻した大妖怪か何かのやうに――。
「おや! H夫妻は矢張此処に泊つてゐるな」
Bは室に入るとすぐかう独語した。
Bはその窓の下のところで、例のドイツ種の大きな犬が頻りに悲鳴を挙げてゐるのを聞いた。かれは何方《どちら》かと言へば狭い一室の卓《テイブル》の傍《かたはら》にある椅子に腰を下《おろ》して、さう大した明るいとは言へない光線の下《もと》に、寝床《ベツト》の上に敷かれた白いシイトや、鞄などの置くやうになつてゐる棚などの静かに照されてゐるのを見廻した。かれは何とも言へないさびしさのひしと身を襲つて来るのを感じた。しかもそれは旅情と言つたやうなものではなかつた。Bは身につまされたといふやうな心持で、かうした蒙古風の吹き荒《すさ》んでゐる塞外《そくぐわい》の地に入つて行くH夫妻に同情した。(でも若い二人だから好い……。何んな困難でも二人で切抜けて行かうといふのだから好い――)かう独語したBは、T氏の言つた言葉などをも思ひ出さずにはゐられなかつた。
そのあくる日であつたか、北京の宮殿の見物からBが戻つて来ると、そこにこれから外出しようとしてゐるH夫妻がゐて、「おや! あなたも此方《こちら》でしたかな?」などと声をかけられた。ドイツ種の大きな犬は、盛装した夫人の周囲を頻りにぐるぐると廻つてゐた。そして時々大きな声を立てゝ吼えた。
「こら、こら! ヂヤツク!」かうH夫人はやさしく制した。
「中々好いですね。奥さんが伴れてあるくと、よく調和しますよ」
こんなことをBが言ふと、
「左様で御座いますか。……」かう夫人は言つて顔を赧《あか》くして、「それでも、役には立ちますので御座いますよ……。今日も午前に万寿山《まんじゆやま》で、あそこの乞食をこれが退撃《たいげき》して呉れましてね。大変に助かりました――」
「そんなに乞食が多う御座んすか?」
「え、え、あそこは――。汚ない恰好《かつかう》をして近くへ寄つて来るので御座いますもの――」
「あゝいふ時には、かういふ奴は役に立ちますよ」
「さうでせうな……」かう言つたBはすぐ言葉を続いで、「それで、まだお立ちにはならないのですか?」
「いや、もう行かなければならないのですけれども、丁度、今、節《せつ》がわるくて、馬車が御座いませんものですから……」
「此方《こちら》からいつでも馬車を仕立てゝ行けるのではないんですか?」
「北京にゐる奴《やつ》は、何うも行くのをいやがりましてな。何しろ遠いんですから。向うから来てゐる奴《もの》でないと、何うしても行かうとは言はないんです?」
「それは大変ですな……。それにしても、その赤峰といふところまで一体幾日かゝるんです?」
「さうですな……。路がわるいですか
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