叔母も好いお客にはしてゐるけれども、心配もしてゐるんですの……。相手の女ですか。いくらかは惚れてゐるんですけども、何と言つたつて、まだ若いんですからねえ。私なども覚えがありますけども、二十や二十一では本当のことはわかりませんからね? 一度や二度は男を捨てたり男に捨てられたりしなければ、本当のことはわかりませんからねえ……」こんなことを時子は言つたが、しかも二人してかうして馬車で走つてゐるのを見られても、少しも困つたり狼狽《あわ》てたりしたやうな態度をかの女は面《おもて》にあらはさなかつた。町はやがて尽きて、その向うには、次第に大きな川の流れてゐるらしい濶い地平線を眼の前にするやうになつて行つた。
 石ころの多い小さな坂を登つたと思ふと、新しい天地でも開けたやうに、忽ち右に大きな鉄橋を跨らせた大河が、雲を浮べ日を溶して洋々としてゐるのをBは眼にした。馬車はやがてその土手の上で留つた。
「これが松花江《スンガリイ》だね?」
「さう――」
「大きいね?」
 逸早く女が下りるのをBは眼にして、
「こゝで下りるのかえ?」
「え……こゝで下りて、川を渡らなくては?」
「川を渡るのかえ? この川を?」
 Bはいくらか驚いたやうにして言つた。
「だつて、エスカスは、向うですもの? ……川を渡らなくつちや……?」時子はかう言つたが、続いて下りて来るBを土手の向うへ――ボウトやベカの沢山に集まつてゐる方へ伴れて行きながら、「そら、向うに見えるでせう? ロシア人の住んでる家が?」
「あゝ……」
「あれがエスカスですの」
「大変だね」
「何アに、わけはありません。だつてボートですぐ行けるんですもの……。今でこそまだやつと春になつたばかりなので川はこんなにさびしいですけれども、これから夏になると、それは賑かですよ。ロシヤ人は皆な川に出て来ますからね……。そらあそこに、若い二人連がベカを漕いでゐるでせう? あゝいふのが沢山に出て来るんですから――」いつか時子はボートの沢山並んでゐる土手の所へ行つて、さういふことにはつねに十分馴れてゐるものゝやうに、そこにゐる支那人の船顔に何か二|言《こと》三|言《こと》話しかけたが、話しはすぐきまつて、かれ等は船頭に導かれて、そのまゝ土手の下にたぷ/\水に漂つてゐるベカにしてはいくらか大きい舟に二人さし向ひになつて乗つた。
「あぶないね? 大丈夫かね?」
「大丈夫ですとも……」
「深いんだらう?」
「それは深いですけれども、そんな心配はありませんの……」
「是でひつくりかへれば、それこそ本望には本望だけども――」Bはいくらか軽い調子で言つた。
「本当ね」
 時子も片頬を笑ませた。
 支那人の船頭が櫂を操つるにつれて、ボートは静かに川の上へ浮んで行つた。静かな波が日影と共にキラ/\と櫂に砕けた。
 次第に離れて行く岸には、支那人やロシア人が大勢集まつて此方《こちら》を見てゐた。中には此方《こちら》を指して何か言つてゐる者などもあつた。埠頭に立てられてある赤い旗のあたりには、ロシアの主席達が二組も三組も手を組んで歩いて行くのが見えた。
「私も、夏になると、抱への妓などゝ一緒に来るんですの……」
「漕げるのかね?」
「え、漕げますとも――よくひとりで漕いで行くこともあるんですもの――でもかうしてこの舟に貴方と一緒に乗らうなどゝはいつ考へたでせうね? それを想ふと、もうこれで十分だ! ツて云ふ気がしますねえ。矢張、あの雪の夜の十字架のお蔭ね?」
「矢張、お互ひに心をなくさずに持つてゐたからだね?」
「本当ですね」
 二人は恋の極致にでも達したやうな涙ぐましさを感ぜずにはゐられなかつた。お互ひに――本当にお互ひに心をなくさずに持つて来た。そのためにかうした心が開かれた。櫂に砕ける水の音が静かにあたりに響いた。

         四

 二人はやがて向うの岸に上陸した。
 かれ等の眼には荒れ果てた部落――曾てそのベランダに、またはそのバルコニイに、さぞさま/″\の美しい裾《スカート》を曳いたであらうと思はれる二階建の瀟洒な別荘風の建物や、白い赤いペンキ塗りの色の褪せて尖つた教会堂のやうな家屋や、柵のやうにぐるりと取巻いて居る垣の中にすつかり捨て去られた花壇や、硝子張りの所々破れて今は何の花の色彩もなくなつて了つたやうな温室や、さうかと思ふと、白い髯のロシア人がいかにも物淋しげにひとり立つてあたりを眺めてゐる庭などがそれからそれへとあらはれて来た。
「こゝは平生はハルピンでも好い人が住んでゐたところなんですけど、今はすつかりこんな風になつて了つたんです。でも、王党の人はまだこゝに来てかくれてゐるものがあるんださうですよ」時子はこんなことを言ひながら、それでも自分が案内しなければならないといふやうに、そこにゐるロシア人の子供をつかまへ
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