アンナ、パブロオナ
田山録弥

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)傍《そば》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二|言《こと》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「肄のへん+欠」、第3水準1−86−31]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)サラ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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         一

「そんなにして遊んでゐて好いのかね?」
「大丈夫よ」
 Bは笑つて、「旦那に見られては困るんぢやないか?」
「そんなこと心配ないの……見つかつて、いやだつて言つたら、よして了ふばかりですもの」
 飽きも飽かれもせずに別れた時子とハルピンのホテルでさうした一夜を送らうとはBは思ひもかけなかつた。それはそこにゐるのは聞いて知つてゐた。大連で女から手紙も受取るには受取つた。しかもかういふ風に自由に、簡単に逢ふことが出来るとはBも思つてゐなかつた。せめて顔だけでも見られゝば満足であると思つて居た。であるのに、昨夜電話をかけると女はすぐやつて来て、それからの恋心の復活、何処にもさうした自由な歓楽はあり得まいと思はれるほどの恋のエクスタシイ――今朝目覚めた時には二人は顔を見合せずには居られなかつたことを、Bは繰返した。
「でもあとで困るといけないよ」
「心配なさらなくつて好いのよ……。それよりも、私、東京に帰りたくなつちやつた!」
「馬鹿な!」
 Bは笑つて見せた。
「伴れてつて下さい! ね? ね?」
 とても出来ないのをちやんと承知してゐて、しかもわざと甘へるやうに時子は言つた。時子はベツドの傍《そば》にある洗面所で顔を洗つて髪を梳いて、白粉《おしろい》をさつと刷毛で刷いて綺麗になつてゐた。
「……………………」
「駄目?」
 男の顔をじつと見て、
「どうしてかう人間と云ふものは思ひのまゝにならないものなんでせうね!」
「…………」
「だつて、さうぢやないの? こんなに思合つてゐるものが何故《なぜ》一緒になれずに、こんなに遠く離れて暮さなけりやならないの? それがこの世の義理?」
「…………」
「男ツてのんきね。何とも思つてゐないんですものね?」
「…………」
「ね? 伴れて行つて下さい!」
 Bが猶ほ真面目な顔で沈黙を続けてゐるのを見て、時子は溜息をついて、「私だつて旦那がいやぢやないんです。いやではとてもこんなにしてはゐられはしません。しかし本当にはそれより矢張貴方の方が好いんですものね…………。貴方だつてさうでせう? 奥さんがいやぢやないんでせう。しかし奥様よりも私の方が好いんですもの……。何故、好い同志がかうして離れてゐなくつてはならないんでせう。二人一緒になれば、眼に見えて好いことがちやんとわかつて居りながら――」
「…………」
 Bは答への代りに、二三歩近寄つていきなり女をかき抱いた。時子も強くBを抱き緊めた。いつか男の眼からは涙が流れた。女は低い欷歔《すゝりなき》の音を立てた。

         二

「それで、そのアンナといふ女はこのハルピンにゐるの?」
「さう――」
「ハルピンの何処に?」
「何でも郊外ださうだ。エスカスとかいふところがあるかね?」
「あるわ」
「何処だえ、それは?」
「川の向うですがね。避難民などがゐるところですがね……。そこにゐるんですか?」
「さうだ。それを是非訪ねなければならないのだ……。このハルピンに来るについて、二つの目的――ひとつはお前に逢ふといふこと、それはかうして思ひ通りになつたが、もうひとつはそのアンナに是非逢つて行かなければならない」
「それで貴方のお友達から手紙でもことづかつていらつしやつたの?」
「手紙ばかりぢやない、金も少し許《ばか》り頼まれて来た――そのアンナといふ女がね、それは不思議な女でね。何うしても、僕の友人を忘れないんだ。東京にも一度来たことがあるんだがね。何と言つたつて外国人だからね。友達も負けずに深くは思つてゐるにはゐるのだけれども、周囲が喧《やか》ましくつてね。それで半年ほどゐてウラジホに帰つたんだがね? いくらなだめても、賺《すか》しても、友達でなくちやいやなんださうだ。女といふものは、思ひ込むと、あゝいふ風になるもんかも知れないな……。多少その恋が宗教的になつてゐるんだからね……」
「そんな人なの? それで矢張商売をしてゐる人?」
「何でも、ウラジホではアンナつて言へば、大したもんだつたさうだ……。踊りも唄も非常に旨いつていふ話だよ。一度、東京でも新聞に大々的に書いたことがあつたよ」
「それで、今でもその友達ツていふ人から、お金が来てるの?」

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