はつきりは知らんが、いくらかは来てるらしいね? ウラジホにゐる中《うち》は、友人も一年に二度や三度は、行つたらしいからね?」
「此方《こつち》にはいつから来てるの!」
「何でも向うがすつかり赤化《せきくわ》しちやつて、ゐられなくなつて、それで此方《こつち》へ来たんだが、去年の冬あたりから来てるんぢやないかな……」
「へえ……そんな女がゐるの? それは私ちつとも知らなかつた――。矢張私と同じね?」
「だつて、旦那なんかありやしない――」
「それはあるわよ……。屹度《きつと》あるわよ。でなくつちや生きてゐられないもの……。私と同じね……。それで、明日《あす》貴方行くの?」
「是非行かなくつては――」
「ぢや、私も伴れて行つて下さいね?」
「それは伴れて行つてやつても好いけれども。ロシアの女なんかに逢つたつてしやうがないぢやないか?」
「さうぢやないのよ……。私、身につまされたんですもの……。女ツていふものは皆なさうですが、さうと思ひ込むと、忘れやしませんわね。一緒にゐたツてゐなくつたツて、同じことになるのね。旦那だつて、何だつて、皆なその人になつて了ふんですもの……。いゝことをきいたわ、妾《わたし》。私、そのロシア人と友達になりたいわ」
「相変らず空想家だな?」
「だつて貴方にだつて、私の心はわかつたでせう? 二年、三年経つても、私の心は少しも変つてゐなかつたといふことが――? 矢張、私の心の中には、貴方ツきりゐないんですもの……。でも、さびしい時がありますのよ、つく/″\さびしくなつて、ひとりでゐることが悲しくつて、心細くつて、いくらかヤケになつて、悪酔ひなんかすることがありますけども……あゝさう云へば、かういふことがあります。それはさう去年の冬でした、ハルピンにはめづらしく雪が積つて――此方《こちら》は雪が降つても灰のやうにサラ/\して皆な吹き飛ばされて積ることなんかないんですけども、いくらか暖かだつたのでそれで積つたんですね。酔ぱらつてお座敷から帰る途中でしたがね、私は悲しくつて悲しくつて、涙が出て涙が出て仕方がないんです。もう此の世もなにもないやうな気がして、夢中で雪の中を歩いてゐたんです。ところが、そこに明るい灯《ひ》が一杯に輝いて、ロシア人の大勢集つてゐる教会堂があるのが眼に入つたぢやありませんか。私はいきなりそこに入つて行つて手を合せましたが、あの時のことは今でも忘れずにゐます。その時はさうも思ひませんでしたけれども、矢張貴方に向つて手を合せたやうなものだつたんです――だから、そのアンナつていふ人の心持もよくわかりますの……。ね、いゝでせう。是非、一緒に伴れて行つて下さい――」
「でもね……行くのは好いけれどもね。一緒に歩いて、旦那に見られたり何かして、問題になると困るよ」
「私の旦那は、そんな旦那ぢやないの。一緒に歩いてゐるところを見られたつて、怒つたり何かする人ぢやないの――もつと思ひやりの深い人なのよ……。一緒に歩いたつて、三日か四日ぢやありませんか。あとはまたいつ逢はれるかわからないんですもの……大目に見て呉れますの……」
「…………」
三
朝飯も幅《はゞ》で下のレストランに入つて二人並んで食ひ、ホテルのマネイジヤアや番頭などにも平気で話し、あたり前の事でもするやうにして、B達は二人乗の軽快な馬車に乗つて出掛けた。
それでも時子はその前に宅へ電話をかけて来た。「叔母さん心配はしてゐたけれども……何アに構ひやしないのよ。好い叔母ですからね。本当の叔母だつてあんなには行きませんからね。あの叔母がわかつてゐるから、私、かうしてゐるのよ。でなきやこんなところに落附いてゐるもんですか」並んで馬車に乗りながら時子は言つた。ほんの今日だけのことであるけれども、それでも夫婦《めをと》にでもなつたやうな喜悦を時子もBも感じた。
「かうして馬車に乗つて、ハルピンの町を行かうとは思はなかつたのねえ? 去年の雪に教会堂で手を合せた時分にも、こんな時が来るとは思はなかつた!」
かう時子は喜ばしさうにBの耳に囁いた。
「エスカス? エスカス? 川まで?」
ロシヤ人の馭者は振返つてBに言つた。
「川まで?」
時子も合せた。
これでロシア人と支那人とが混つて歩いてさへゐなかつたなら、B達はこゝを日本橋の大通かと思つたかも知れないほどそれほどあたりの建物はよく似てゐた。漸く咲き始めた六月のアカシヤの花がをり/\強いかをりを街頭に漲らせた。
途中で時子はかねて知つてゐるらしい日本人に三人ほど逢つて挨拶した。一番最後に逢つたのは、脊広を着た、若いハイカラな会社員らしい男であつたが、少しこつちに来てから、「あの人、満鉄に出てゐるんですけれどもね。宅の抱への小春といふのに惚れて大変なんですの? お宝も随分使ふの?
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