ことはわからん。仮にいってみればあるというだけでね。要は、料理のために料理のことを知る、それよりほかに手はない。そうしてほかの先生を仔細《しさい》に検討してみるといい。
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わさびの味が分っては身代《しんだい》は持てぬ。
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栄養を待っている肉体に要求がなくなれば、美味にあらず効果もなし。
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外人でも日本人でも、料理を心底《しんそこ》から楽しんではいないようだ。味覚を楽しみたい心は持っているが、真から楽しめる料理は料理屋にも家庭にもないからであるらしい。栄養栄養と、この流行に災いされ、栄養薬を食って栄養食の生活なりと、履《は》き違えをしているらしい。
えて栄養食と称するものは、病人か小児が収監《しゅうかん》されているときのような不自由人だけに当てはまるもので、食おうと思えばなんでも食える自由人には、ビタミンだのカロリーなど口やかましくいう栄養論者の説など気にする必要はない。
好きなものばかりを食いつづけて行くことだ。好きなものでなければ食わぬと、決めてかかることが理想的である。
鶏《にわとり》や飼犬のような宛《あ》てがいの料理は真の栄養にはな
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