料理するならば、文句なしに美味いと決っているのである。それが場ちがいのもので、しかも古びた、さかなでいうなら、色の褪《あ》せた、臭気《しゅうき》のあるようなものでは、いかに腕のある料理人でも、どうしたって美味くはならないものである。野菜にしても、萎《しな》びて精気を欠いていては、味も香気もなく、ただもうつまらない食物にしかならないのである。こう考えて物が判《わか》るとき、材料のことをまず第一に心がけねばならぬ必要が起こるのである。材料の良否を心がけると同時に、次には材料の見分けがしかと掴《つか》めなくてはならないのである。
 それには経験が充分できていないと、材料を目前にして、よしあしが分らないであろうから、買い物学とでもいう買いものの苦労を重ねなくてはならないのである。例えば婦人が呉服ものの選択に苦労するようにである。見れども見えず、食えどもその味が分らないというようでは、料理を拵《こしら》える資格もなければ、食う資格もないわけである。材料の良否は人の賢愚《けんぐ》善悪にも等しいもので、腐ったようなさかな、あるいは季節はずれの脂《あぶら》っ気《け》を失ったさかななどは、魂の腐った人間
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